大化改新前の兆し - 圣徳太子の推古改革

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大化改新前の兆し ——聖徳太子の推古改革

聖徳太子(574―622)は飛鳥時代の政治家、また宗教的思想家である。厩戸皇子、豊聡耳、上宮王ともいう。父は用明天皇で、母は穴穂部間人皇后である。

6世紀初めに、大和政権を作っていた豪族たちは、多くの土地?農民を支配して勢いを強めるようになり、豪族同士の対立が激しくなった。6世紀中ごろ、中央では品部の組織を整え、政治機構を充実しようとする動きが進んでいたが、蘇我氏は渡来人と結ぶことによって朝廷の財政権を握り、政治機構を整える動きを積極的に進めた。 6世紀の末、、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして政権を独占し、さらに592年には、対立していた崇峻天皇をも暗殺した.このような政情の危機にあたって即位した女帝の推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子を摂政とし、国政を担当させた。太子は大臣の蘇我馬子と協力し、内外の新しい動きに対応して国政の改革にあたることになった。

聖徳太子を中心とする推古天皇の朝廷では、603年に冠位十二階の制が定められた。冠位は、姓とは異なって、才能や功績に応じて個人に対して与えられるものであり,また次第に昇進することもできた。これは、後の位階の制の起源を成すもので、役人としての性格を強めてきた豪族一人一人の、朝廷内における地位をはっきりさせるのに役立った。 冠位十二階は地位の高い位階から順に、位階の名前と冠の色を列挙されては、大徳(濃紫)、小徳(薄紫)、大仁(濃青)、小仁(薄青)、大礼(濃赤)、小礼(薄赤)、大信(濃黄)、小信(薄黄)、大義(濃白)、小義(薄白)、大智(濃黒)、小智(薄黒)。 冠位十二階制は、日本で初めてつくられた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て律令位階制へ移行していった。冠位十二階制は日本封建等級制度の原型である。

聖徳太子はまた、604年に憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたる上での心構えを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した。日本で初めて「憲法」という言葉が使われた。これによって理想的な国家作りを行った。また、太子は馬子とともに、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂したという。これらはいずれも豪族を官僚として組織し、国家の形を整えることを目指したものであった。これまでの大王などの称に変わって天皇の称号が用いられるようになったのも、推古朝のころからとみられている。 憲法十七条(簡約)は、

1、和を大切にし,人と争わないように心がけなさい。

2、あつく三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは,仏?法?僧であり,仏教を信仰しなさ

い。

3、天皇の命令には必ず従いなさい。

4、すべての役人は礼を守りなさい。礼は民を治め官人の序列をも維持するもの。 5、私利私欲を捨てて,民の訴えを公正に裁きなさい。 6、善と悪をよくみきわめて対応しなさい。

7、自分の任務をきちんと行い,他の職務に干渉してはいけない。 8、役人は朝早く出勤し,夜遅くまで働きなさい。

9、善悪は義の根本である信(誠実さ)のあるなしに関係している。心がなければ何事

も成功しない。 10、人それぞれに意見が違うのはあたりまえなので,違うからといってむやみに怒っ

てはいけない。

11、部下の仕事のできをきちんと見極めて賞罰の判断をしなさい。 12、地方の役人は民から税をとってはいけない。

13、役人は同僚や上司の仕事の内容も知っていなさい。 14、役人は他人をうらんだりねたんだりしてはいけない。 15、役人は私情を捨てて,正しく職務を遂行しなさい。

16、民を労役に使うときは,時節をよく考えなさい。農業の忙しい時期に招集しては

ならない。

17、大事なことは一人で決めず,多くの人々とよく議論してから決めなさい。

冠位十二階が、天皇制の下での官人貴族の序列化であるとすれば、憲法十七条は、官人貴族の服務規律であり、道徳規範であった。『憲法十七条』は当時の政治闘争の必要によって、中国の法家思想や儒家思想や墨家思想及び佛家思想などを選んで、日本の具体的情況を結び合わせて制定したものだ。人と人の間の異なる身分等級と社会地位と権利義務を規定して、憲法十七条は手始めの統一的な中央集権政治の原則を確定した。

『憲法十七条』は日本の歴史上一番初めの、わりと完全にそろっていて、また具体的に中央集権統治を築くのを提出した政治綱領である。当時の歴史条件のもとに、聖徳太子は敢えてそんな新鮮的な主張を提出して、またそんな進歩的な主張を提出できるのは、とても貴重だ。それは大化の改新のために、思想と理論基礎を固めた。 しかし、「推古朝改革」を実行する過程中、聖徳太子や推古天皇などの軟弱性も明らかになった。彼らは世襲貴族制度ときわめて密接な関係があって、横暴貴族とあれこれ血縁関係がある。だから、力を結集して、徹底的に世襲貴族制を廃止して、断固に横暴貴族に打撃を与えることができない。そして、彼らはひたすら「和を以って貴しと為す」を強調して、また、横暴貴族が信義を厳格に守りぬいて、協力して改革をすることができるのを安易に信じた。それは、改革が必ず失敗するに違いないの運命を決めた。 東アジアの情勢が大きく変化したのに伴って、隋と国交を開くことになった。聖徳太子は、600年、607年、608年、614年の4回、隋に使者を送った。607年には小野妹子が遣隋使として中国に渡った。隋との交渉では、その国書に示されているように、倭の五王時代とは異なり、中国の王朝に対して対等の立場を主張しようとする態度が認められる。遣隋使にはまた、多くの留学生?学問僧がしたがった。長期の滞在を終えて帰国した彼らの新知識は、後の大化の改新に始まる国政改革に、大きな役割を果たすことになった。 また、聖徳太子が強力に提唱するのもとに、アジア大陸文化が大量に輸入して、日本は歴史上の一番初めの文化繁栄期、つまり、推古期と大化の改新の間の「飛鳥文化時代」を迎えてきた。飛鳥文化は佛教文化を中心とする。この時代には仏教の学問的な研究も始まり、法華経?維摩経?勝鬘経の三つの経典の注釈書で、聖徳太子の著と言われる三経義疏が伝えられている。また、蘇我氏の発願による飛鳥寺、聖徳太子の発願によると言われる四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)などをはじめ、諸氏も競って氏寺を建てた。百済の僧観勒が暦をもたらし、年月の経過を記録することがはじまったのもこのころで、歴史書や諸記録の発達にとって大きな出来事であった。

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