05章-飞鸟文化 - 图文

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第五章 国際色豊かな仏教文化ーー飛鳥文化 (538~710年) 第1節 飛鳥文化の形成

要点: a. 飛鳥文化の時期 ①蘇我氏と物部氏と対立→崇仏論争 ②最初の仏教文化→博士と儒学、仏教の百済から伝来。 b. 飛鳥文化の性格 ①渡来人文化 ②中国六朝文化?百済?高句麗文化の影響など c.寺院と仏像→推古朝の仏教保護政策→寺院建築が中心 ①寺院の建立:四天王寺?中宮寺?法起寺?法興寺?飛鳥寺?法隆寺、 ②仏像:中宮寺半跏思惟像?法隆寺百済観音像?法隆寺金堂釈迦三尊像 ?飛島寺丈六釈迦如来像?法隆寺夢殿救世観音像?広隆寺半跏思惟像 d.絵画と工芸 ①紙墨の伝来 ②玉虫厨子の扉や台座に描かれた?須弥座絵?天寿国繍帳?獅子狩り文様錦?伽藍配置 e. 暦の伝来 ①百済の観勒、暦本、天文地理書 ②暦法の採用

4、5世紀、地方の豪族を制圧し大和王権(大和朝廷)が全国を統一した。6世紀の中ごろに、日本に仏教が伝われてきた。この時、都は奈良県の飛鳥に置かれていた。聖徳太子は蘇我氏とともに仏教を広め、大王(天皇)を中心とした国家建設を目指した。この理想は7世紀になっても継承され、大化の改新や壬申の乱を経て律令国家の完成へとつながっていく。

1.飛鳥文化成立の背景

飛鳥文化は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。当時の宮の所在地の飛鳥をとって、飛鳥文化と呼ばれている。時期としては、一般に6世紀半ば、仏教が百済から公伝した頃から、7世紀中頃に大化改新が行われる頃までの約一世紀の文化である。

?大和朝廷の動揺 当時、隋帝国の出現(581)によって、6世紀末から7世紀始めにか

けて、東アジアには大きな国際関係の変化が見られるようになった。この変化は、大和朝

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廷の矛盾をあらわにしていった部民制や国県制という、それまでの大和朝廷の支配に代わる、新たな支配体制の形成を促すこととなった。5世紀末から、大和朝廷の発展に伴って中央豪族たちは土地や人民の獲得に腐心にして、それを背景に朝廷内部の豪族の勢力争い、大和政権と各地の豪族との対立は日増しに激しくなっていった。こうした対立抗争に巻き込まれた大和国家の支配は、豪族の王位継承干渉により危機に陥った。そのうえ、朝鮮半島では高句麗、新羅の国勢が盛んとなり、562年、ついに加羅の諸国は新羅に滅ぼされた。この間、朝鮮政策を主導していた大連の大伴氏が勢力を失い、蘇我氏をはじめ有力豪族や聖徳太子らは、隋?唐の新たな法治体制を日本に移植して変革を試みた。

おおむらじ

おおとも

こうくり

しらぎ

ぶみんせいくにけんせい

?仏教の伝来 インドで興った仏教は、67年中国(後漢)に伝来し、その後、384年に

朝鮮半島の百済へ伝わり、6世紀半ば、538年(日本書紀によると552年、元興寺縁起などでは538年)、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上し仏教伝来が始まったといわれる。その後、推古天皇の時代に「仏教興隆の詔」が出され、各地で寺院建設も始まった。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えた。ここに仏教信仰が始動した。

日本に仏教が伝来した年代については538年と552年説がある。『日本書紀』によると、欽明天皇13年(西暦552年)、百済の聖明王が朝廷に遣いを送ってきたと記述されている。その一人が怒利斯到契で、釈迦仏(金銅製)一体、幡蓋、経論数巻を献上した。別の資料(『元興寺伽藍縁起』?『上宮聖徳法王帝説』等)によれば、仏教が日本に伝来したのは、「志帰嶋天皇(欽明天皇)の時代、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)が初めて渡ってきて、仏像?経教、僧等を奉る。」とある。欽明天皇が即位した年を531年としているので、仏教伝来は538年となる。現在は仏教公伝を538年の説のほうが有力である。どちらにしても、仏教の伝来は公式に百済の聖明王から、はじめて大和朝廷に仏像と経論などが贈られた年代を指すものであって、それ以前から、渡来人などの間で私的に仏教が受容されていたであろうとは、当然の事実として推測される。

『日本書紀』によれば、仏教の伝来時に贈られた仏像を見て、欽明天皇はこのように美しい(「端厳し」)容貌を見たことはないと言い、この仏教を礼拝すべきかどうかについて、臣下たちに問うと、「大陸の優れた文化であり、西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と蘇我大臣稲目が賛成したのに対して、物部大連尾輿らは「外国の神を受け入れれば、日本古来の「神」が怒る。」という理由から仏教に反対し、徹底的に排除するべきと主張した。そこで、天皇は「試しに拝んでみるように」と、仏像や教典を蘇我大臣稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し、向原の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった、と書かれている。現在、向原の家は飛鳥の向原寺である。

むくはら

そがのおおおみいなめ

もののべおおむらじおこし

きらぎら

きんめい

しきしま

つちのえうま

がんごうじがらんえんぎ

じょうぐうしょうとくほうおうていせつ

ぬりしちけい

はたきぬがさ

きんめい

せいめいおう

めいふく

みことのり

せいめいおう

きんめい

しゃかにょらいぞう

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この6世紀中葉には、大陸文化の影響などにより、すでにそのような伝統的な信仰は薄れつつあった。仏教がそれに代わるものとして、はじめから明確な政治的意図に基づいて、受容されたとまでは言えないにしても、このころ以降、前方後円墳の築造は衰退に向かい、それに代わって蘇我氏による飛鳥寺をはじめ、有力な氏族や、さらに政府による寺院の建立が盛んになる点からみれば、尐なくとも結果としては、統一国家を支える政治的宗教とでもいうべきものが、古墳時代初期の原始的な信仰から、新しい仏教へと変化していったことは事実である。これがいわゆる国家仏教?鎮護国家を主眼とする仏教であって、やがて奈良時代にその頂点を迎えることとなる。(可以考虑放在本章节的最后,作为结尾。)

そがうじ

きばん

?蘇我氏と物部氏の崇仏論争 蘇我氏は南大和を基盤とした豪族であったが、大陸や

朝鮮からの渡来人とも深い結びつきをもって発展した。そして、大王(天皇)家とも姻戚関係を結んで勢力を伸ばした。さらに、大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと主張している新興氏族であった。物部氏は、軍事などを職としていた、そして、日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った伝統的?保守的な氏族であった。

国内で疫病が流行った時、物部尾興は、その原因が仏教を受け入れたせいだと批判した。古来よりの神々を蔑ろにした祟りだと騒がれ始めたため、崇仏を承認していた敏達天皇も物部守屋や中臣勝海の主張を聞き入れて排仏命令を出した。この時を待っていた物部氏は、仏殿や塔に火を放ち焼き払ってしまった。家は焼けても仏像は燃えなかったため、仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだのである。しかし、疫病はなくならず、天災も続いた。さらに、天皇や馬子、守屋までが病気になってしまった。馬子は崇仏の天皇から再び崇仏の許可をもらうとたちどころに病が治ったが、天皇は崩御してしまった。この後の天皇を誰にするかで物部氏と蘇我氏の対立が激化する。蘇我?物部両氏族の対立は激化し、6世紀末に仏教受容について意見の対立、と用明皇死後の皇位継承問題とが絡んで武力抗争にまで発展した。

こうして、飛鳥文化の成立はこのような国際的文化交渉の質的変化を前提とすることは事実である。そうした条件のもとに形成された文化がどのような内容をもっていたか、次の節で述べることにしたい。

から

ほうぎょ

もりや

もりや

かつみないがし

たた

びだつ

もののべのおこし

てっていてき

はいじょ

しんこうしぞく

もののべし

いんせき

2.飛鳥文化の性格

飛鳥文化といえば、大陸文化の摂取という事実を無視できない。そして、6世紀~7世紀の日本の歴史的情勢がそれにどのような歴史的性格を与えたか、また新しい外来の文化と伝統的な文化との間に6世紀~7世紀の文化史の基本的な動きをとらえている必要がある。

?大陸文化の摂取 6世紀の日本に大陸文化をもたらす直接の契機となったのは、朝鮮半

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島をめぐる国際的情勢であった。百済は中国王朝ほ歓心を求めようとし、高句麗と競争して、南朝の歴代に入貢したのであるが、その結果、南朝の漢文化が陸続として百済に流れ込み、百済は半島における大陸文化の出店のような観を呈するにいたった。

『日本書紀』によると、513年には五経博士段楊爾を貢し、516年には五経博士漢高安茂を送って段に代えたという。その後も、百済は五経博士のほかに、医博士?易博士?暦博士?僧?楽人などを交番に貢上してきた。このようにして、百済を媒介とする南朝の中国文化が続々として6世紀の日本に移植され、飛鳥文化の展開を可能させる前提条件を形成したのである。

百済を経由する大陸文化の輸入が活発となったとき、いち早くこれに反応を示したのは蘇我氏であった。蘇我氏は当時集権政府としての道を辿っていた大和朝廷の最高の官僚としての役割を演じていて、大陸文化に親しんでいた漢直等、帰化人系氏族の関係が深かったところから、大陸文化に対し、比較的理解力を豊かにもつことができたのである。

あやのあたい

ごきょうはかせだんように

かんのこうあんも

?飛鳥文化の特色 飛鳥時代には、仏教が盛んになり、大阪に四天王寺、奈良に法隆寺

や飛鳥寺などの大きな寺院がつくられた。この時代の仏教を中心とする文化を飛鳥文化と呼ばれている。寺院や仏像?工芸品には朝鮮からの渡来人によってつくられたものが多く、また、ギリシャ文化とのつながりを示すものもあって、飛鳥文化が日本国内だけでなく、世界とのつながりをもっていたことがわかる。

飛鳥文化は、蘇我氏など中央の有力豪族層と渡来人による文化の充実の上に生み出された文化であり、蘇我氏が信仰した仏教が朝廷の保護を受け、発展した最初の仏教文化とも言える。朝鮮の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、さらに間接的にではあるが、東ローマ?ギリシア?ササン朝ペルシアなどの文化の影響も受けている国際性豊かな文化でもある。当時、多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期でも言える。

3.寺院と仏像

?寺院の造営 皇位継承闘争に勝利した

蘇我馬子や聖徳太子は、「仏法興隆」をめざし、その後本格的な寺院建設を行っていく。法興寺は明日香村にあり、現在は飛鳥寺(「安居院」)として知られている。法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として、蘇我氏によって建立された。また、飛鳥寺は日本で最初の瓦葺き寺院でも

あった。掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては、外国の文化を直接感じ

かわらぶ

ほうこうじ

四天王寺 87

るものであったようだ。瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われている。掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで、それまでの建築方法が一変した。聖徳太子は大阪に四天王寺、奈良斑鳩に法隆寺を建立した。 *四天王寺 四天王寺は、593(推古天皇元)年、今から1400年以上も前に建立された寺院で、大阪市天王寺区、大阪市天王寺区にある。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山、本尊は救世観音である。「金光明四天王大護国寺」ともいう。

『日本書紀』によれば、593年(推古天皇元年)に造立が開始されている。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。四天王寺式伽藍配置は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つで、その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされている。

*中宮寺中宮寺は、聖徳太子創建七ヵ寺の一つで、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子の母穴穂部間人皇后の御所を寺としたものと伝えられる。本尊の弥勒菩薩半跏思惟像は国宝で、格調高く、優しさにあふれている。

*法起寺三重塔 斑鳩の里に立つ均整のと 法隆寺夢殿から歩いてすぐに中宮寺はある

あなほべのはしひとこうごう

ちゅうぐうじ

あらはかさん

ぐぜかんのん

こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら

してんのうじ

れた三重塔、千三百年の世の変遷を見守ってき

ほうきじ

法起寺

の貴重な遺構である。それは聖徳太子の岡本宮があった所、太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮を改めて寺とすることを遺命、606(推古14)年、寺に改められた。近くにある法隆寺、中宮寺とともに、聖徳太子建立七ヵ寺の一つで、現在は聖得宗の本山である。日本最古の三重塔で、国宝、世界文化遺産にも指定されている。

*飛鳥寺 飛鳥寺は蘇我氏建立した寺で、596(推古

4)年に蘇我馬子の発願により建てられた、日本で最初の本格的な寺院。三金堂一塔式という、塔の東

三重塔(国宝)奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873 と西、北に金堂を置く類例のない伽藍様式であったが焼失。建立にあたっては、百済の専

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門家が招かれたという史実からも、当時の朝鮮との深いつながりがうかがえる。本尊は、鞍作止利によって造られたと伝わる重要文化財の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)。東大寺の大仏

よりも、さらに150年も古いと推定されている。現存するのは、小さな堂宇とその中に残る日

飛鳥寺 くらつくりのとり

本最古の仏像のみ。飛鳥寺

は、平城遷都で奈良に移り、元興寺と名を改めたが、ここも本元興寺として存続した。寺の庭は、大化改新を巻き起こした、中大兄皇子と中臣鎌足との歴史的な出会いの場として伝えられている。

*法隆寺 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られている。その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができる。それによると、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されたが、その実現をみないままに崩御されたという。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、607(推古15)年に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれている)であると伝えている。このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めている。

ほうりゅうじ

飛鳥文化-代表的な寺院

西院伽藍遠景

金 堂

夢 殿

法隆寺五重塔

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4.仏像と彫刻

?仏像?伽藍 6世紀前半以来、蘇我氏がその私宅に施設を設けて仏教を信仰していたら

しいことは、すでに豪族の寺院造営の萌芽とみられるものであり、577(敏達6)年には難波に大別王の寺なるものが存在したのであって、寺院の起源は飛鳥前代であろう。具体的にその規模と遺物との確認されるのは、推古朝の初頭に完成した飛鳥寺をもって最初とすべきである。その本尊である鞍部止利の釈迦金堂像は、原形を著しく損ないながらも現存しており、また近年の発掘により、創建当初の飛鳥寺が塔を中心に金堂?東西金堂の鼎立する伽藍配置をもつものであることが明らかとなったのであって、飛鳥時代の第一声とでもいうべき仏教文化の具体相をかなりの程度まで知ることができるのである。しかし、飛鳥寺よりもさらに多くの飛鳥文化の遺物を保存している点で、法隆寺がいっそう重要な意味をもつことは、改めていうまでもない。もっとも、現在の法隆寺金堂?塔?中門等の主要伽藍は670(天智9)年に火災にかかったのちの再建の建物であって、聖徳太子の建立した最初の寺院は、いま若草伽藍址と呼ばれている遺跡の地に存在したのである。 *中宮寺半跏思惟像 この像は、寺伝では、如意輪観音とよばれているが、如意輪観音像が信仰されるようになったのは、平安時代からのことなので、あるいは弥勒として造られたものではないかと考えられている。寺伝では、如意輪観音が左足を垂れ、右手指は頬に触れんばかり。半跏思惟の姿は高貴な気品にあふれ、世界三微笑の一つと称えられるアルカイックスマイル。飛鳥時代の特色を持っているところから、当代彫刻の一つに数えられている。

*飛島寺丈六釈迦如来像 銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財)-飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られる。

7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。鞍作鳥は、飛鳥時代に活躍した帰化人系の仏師で、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像(623年)が代表作とされる。

*法隆寺百済観音像 百済観音像は、百済観音の名で広く親しまれている法隆寺宝蔵殿の国宝で、観音菩薩立像は明治になるまでは虚空蔵菩薩として祀られていた。像の高さ2.09m、八頭身の長身で、樟の一本造りで両腕の肘からさきと水瓶 、天衣など別材を継いで造っている。本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていた。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのである。その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけである。作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られている。

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こくうぞうぼさつ

くだらかんのん

くらつくりのとり

わかくさがらん

がらんはいち

ほんぞん

しゃかこんどうぞう

おおまたのみこ

なにわ

本尊の弥勒菩薩半跏思惟像 *法隆寺金堂釈迦三尊像 法隆寺金堂内陣中央に安置されている釈迦三尊像は、飛鳥時代623年に、聖徳太子の冥福を祈って、止利仏師に造らせた仏像である。釈迦如来を中尊として、脇侍は寺伝では薬王菩薩?薬上菩薩と称している。釈迦三尊像が杏仁形の眼や仰月形の唇、アルカイックスマイルと呼ばれる微笑しているような表情は中国北魏様式の影響をうけるが、はるか古代ギリシャ彫刻をも思わせる。

*法隆寺夢殿救世観音像 国宝観音菩薩立像(救世観音)は、739年(天平11)僧行信が斑鳩宮の旧跡に東院を創建したときに,八角仏殿(夢殿)の本尊として安置したものと考えられる。像高は179.9cm、楠木の一木造りで胡粉地に金箔を押し、各所に彩色も施され、頭に山形の宝冠を戴き、あるかなきかの微笑をたたえ、胸もとに宝珠を乗せた蓮華をもち、天衣は両肩から垂直に垂れながら鰭状に張り出し足もとに近く左右に広がっている。長い間秘仏として公開されなかったため保存状態は極めてよく、いまなお金色燦然と、当初の漆箔が輝いている。独特の体躯の造形を有し、杏仁形の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的で、手にはすべての願いがかなうという宝珠を持っている。

この観音像の造像様式の系統については、北魏様式とするもの、北魏から東魏にかけての竜門後期様式に近いとするもの等諸説あり枚挙に暇がない。また制作時期については、聖徳太子在世中とする説?太子薨後まもなくとする説?白鳳時代とする説などがある。 *広隆寺半跏思惟像 弥勒菩薩は、やがて仏となり、未来の世に現れ衆生を導き救うとされ、未来仏として信仰されている菩薩様である。日本の代表的な仏像の中に、国宝第一号にも指定され、広く日本国民的支持を受けた、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」がある。このすばらしい半跏思惟像は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、国内には飛鳥、奈良時代の作品が多く残されている。

飛鳥文化-代表的な仏像

はんかしゆいぞう

みろくぼさつ

くすのき

ごふんち

わきじ

ぎょうにんけいしゃかにょらい

菩薩半跏像(部分) 飛鳥時代?7世紀 奈良?中宮寺蔵

法隆寺百済観音像

法隆寺金堂釈迦三尊像

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飛島寺丈六釈迦如来像

法隆寺夢殿救世観音像

弥勒菩薩(京都広隆寺)

5.絵画と工芸

?紙漉きの伝来 五経博士が百済より渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめ、写経

が仏教普及の大きな役割をはたしていたことからこの頃すでに紙漉がいたのではないかと推測される。『日本書紀』の記述によれば、610(飛鳥時代の推古天皇18)年に、高句麗の僧侶曇徴によって紙漉きと墨の製法と、紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ための石臼が伝えられたことが記録されている。年代のわかるものとして現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃、筑前、豊前の戸籍用紙である。また、最古の写経である西本願寺蔵の「諸仏要集教」は、立派な写経料紙に書かれており、296(西晋元康6)年3月18日の銘記がある。この伝来によって、法隆寺玉虫厨子の扉や台座に描かれた須弥座絵(捨身飼虎図)など絵画が発展した。

しゅみ

しゃしんし

どんちょう

いしうす

?絵画?工芸 中宮寺の天寿国繍帳、獅子狩り文様錦や玉虫厨子がある。妃の橘大郎女

が宮中の采女たちと一緒に刺繍した国宝天寿国繍帳は、太子が往生している天寿国という理想浄土の有様を縫いとったものである。その中には、忍冬唐草文様など、ギリシアやササン朝ペルシアの文化の流れを引いたものもある。

*天寿国繍帳 飛鳥時代の刺繍工芸品で、現存するものでは日本最古のものである。鎌倉中期に尼の信如によって発見されて以来、奈良の中宮寺につたわる。もともとは大きな薄い絹地に刺繍され、2帳にわかれて壁面などを飾っていたらしい。しかし、破損や紛失があり、鎌倉時代に補修をうけ、現在は縦88.8cm、横82.7cmに縫い合わされている。全面に仏像、神将、僧侶、庶民の姿がみえ、鳳凰、兎、飛雲、唐草などの文様を散りばめた壭麗なものである。繍帳の作成事情と経緯については、帳内に400字の銘文があ

藤田美術館所蔵の古裂帳に貼られる じょうぐうしょうとくほうおうていせつ

からくさ

ほうおう

はそん

ふんしつ

きぬち

にんどうからくさもんよう

てんじゅこくしゅうちょうたまむしのずし

る。これを収録した『上宮聖徳法王帝説』によると、622 (推古30) 年2月に聖徳太子が没し、それをいたんだ王妃

たちばなのおおいらつめ

橘大郎女が、往生して天寿国にあそぶ太子の姿をみたいと願ったという。

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*玉虫厨子 法隆寺につたわる厨子。厨子とは、仏像?舎利などを安置する仏具をいう。玉虫厨子は宮殿形の厨子本体とこれをのせる須弥座と台脚部からなり、宮殿部からは飛鳥時代の建築様式を知ることができる。全体に黒漆をぬり、金銅透彫金具をかぶせているが、金具の下にタマムシの翅をしきつめていたところから玉虫厨子とよばれている。厨子に納められていた本尊は失われてしまったが、宮殿部の扉および背面にえがかれた天部像、菩薩像、霊鷲山説法図、須弥座の腰板に絵がかれた仏

玉虫厨子須弥座正面供養図(法隆寺蔵) ぼさつ

りょうじゅせん

くろうるし

きんどうとおるちょうかなぐ

しゅみざ

舎利供養図、須弥山図はよくのこっ

ている。とくに、須弥座右側面の「捨身飼虎図」と左側面の「施身聞偈図」は、釈迦の前世の物語を描いた日本最古の仏教説話画である。これらの絵は、朱、青緑、黄の絵具をもちいているが、漆絵と油を媒介とした密陀絵を併用していることがわかっている。

うるしえ

みつだえしゃしんしこ

せしんもんげ

第2節 聖徳太子と太子信仰

要点: a.聖徳太子の新政 ①物部守屋と蘇我馬子の抗争→物部氏の滅亡(587) ②蘇我馬子朝の崇峻天皇の対立→天皇暗殺(592)推古天皇即位 b.聖徳太子の摂政 もんばつだはじんざいようさく①「冠位十二階」の制定(603)―門閥打破、人材要策、個人にあたえられ―代限り ②「憲法十七条」の制定(604)―官吏への政治的?道徳的訓戒、天皇中心の中央集権国家体制樹立の構想、仏教?儒教?法家思想の影響 c.太子の政治理念 ①仏教の奨励 ②四天王寺?『三経義疏』 ③国史の編纂 d.遣隋使の派遣(607年~618年) ①情勢:煬帝即位、新羅の発展 ②目的:新羅征討のため?積極的な国交?外交的威圧、 ③回数及び時間: ? ④重要な人物:小野妹子、裴世清

1.聖徳太子の新政(積極的な中央集権化)

仏教を国家として受容するのは、単に宗教上の問題にとどまらない。仏教はそもそも、インドのカースト制度や部族制度を超越した普遍的な教義がその中心をなしている。だから、仏教を受け入れるということは、氏姓制度に立脚した豪族連合政権である大和朝廷を、中央集権的律令国家へと変革するという意味あいをもっていた。

りっきゃく

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3 律令国家の成立

要点: a. 大化改新の原因 ①大陸情勢の変化:唐―高句麗遠征、 新羅―強大化、 朝鮮半島の統一をめざす ②氏姓制度の弊害―豪族の強大化―土地人民の兼併、職務の世襲 ③皇室権威の危機―蘇我蝦夷?蘇我入鹿父子、政治を専制 ④留学生の帰国―旻(632)?高向玄理婿南淵請安(640) b. 改新の断行 ①中大兄皇子?中臣鎌足ら、蘇我入鹿を暗殺、蝦夷自殺―乙已の変645年6月 ②中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となる、内臣―中臣鎌足、左大臣―阿倍内麻呂、右大臣―蘇我倉山田石川麻呂、国博士―高向玄理?旻 ③年号を大化とする(645.6) ④都を飛島から難波に移す(645.12) c.「改新の詔」(646.1)―新政府の政治方針を示す ①豪族の田荘?部曲を廃止して公土公民制への移行をめざす ②全国的な人民?田地の調査、統一税制の施行をめざす ③中央官制の整備、地方行政組織「評」の設置 せいびこほりぜいせいしこうたそうぶきょくくらやまだいしかわまろうちつおみあべないまろいっしたかむこのげんりみなぶちのしょうあんえみしそががのいるかへいがいけんぺいせしゅう山背大兄王を自殺させる(643)

● 大化改新 ?蘇我政治の専制

622年に、聖徳太子、626年に蘇我馬子、ついで628年に推古天皇が死ぬと―― 大臣となった蘇我蝦夷は、自分の推す舒明天皇を強引に即位させ、舒明天皇の死後、その皇后が即位して、皇極天皇となったが、この時代に蝦夷?入鹿(鞍作)は、いっそう勢力を伸ばした。

皇極天皇の時代,蘇我蝦夷,蘇我入鹿父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,海外の文化を積極的に導入しようとした。

大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で,同塾生として中臣鎌足がいた。

643年,入鹿は「大臣(おおおみ)――紫の最高位」となり,外交?財政を一手に担うことになる。

東アジアの情勢を知った入鹿は,これまでの日本と百済との関係を見直し,新羅や高句麗とも同じように国交を結ぶ政策(等距離外交)へと転換する。さらに,この政策に反対した聖徳太子の子で次期天皇候補の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃し

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しゅうげき

とうきょり

なかとみのかまたり

しじゅく

ひら

えみし

いるか

こうごう

こうぎょく

えみし

いるか

じょめい

殺した。これにより,聖徳太子一族が滅び,蘇我氏の権力はさらに強大なものとなった。 ?山背大兄王事件

入鹿は、643年、聖徳太子の子で皇位継承の有力候補であった山背大兄王を襲い、上宮王家一族(聖徳太子の一族)を滅亡した。

この事件は、朝廷内部に燻っていた反蘇我氏の気運を一挙に強めた。しかも、当時は、各氏族の支配基盤では、有力農民が成長する反面で没落農民がふえ、これが相次ぐ飢饉とともに社会不安を激化させたので、朝廷の内紛はいっそう深刻となった。 ?新政への準備

中国に派遣されていた僧高向玄理らが帰国した。(640年)彼らは、中国で、約200年にわたる南北朝の対立を統一した隋、さらに高度に中央集権化した唐の国家支配体制の知識を学んできた。

また、唐の律立制を取り入れて国家体制を充実させた新羅の強大化は、日本にとって大きな脅威となり、それに対応するためにも、中央集権的国家体制の形成が考え られるようになってきた。

ようやく、蘇我氏打倒とその後に樹立されるべき国家体制が構想されはじめ、その中心をなしたのが舒明天皇の子中大兄皇子と中臣鎌足であった。 ?蘇我氏の滅亡

中大兄皇子?中臣鎌足は、高向玄理らから大陸の新しい知識を学び、いっぽうで反蘇我勢力を集結していった。645年6月12日、皇子らは大極殿で入鹿を暗殺し、蝦夷も屋敶に火を放って自殺し、ここに蘇我本宗家は滅亡した。(乙已の変)。

いっし

やましろのおおえのおうおそじょう

ぐうおうけ

くすぶ

ぼつらく

たかむこのくろまろ

ちゅうおうしゅうけんかとう

とうりつりつせい

きょういたいおう

そがうじだとうごじゅりつ

なかのおおえおおうじなかととみもかまたり

たかむこのくろまろ

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4 律令国家への道

要点: a. 斉明天皇の政治(皇極天皇の重祚) ①有間皇子の反乱(658)―蘇我赤兄が皇子に反乱をすすめ、裏切る ②百済援助のため斉明天皇みずから出兵したが、九州朝倉宮で死去(661)―百済滅亡 b. 天智天皇の政治(皇太子のまま称制、のち即位668~671) ①外 交 白村江の戦い(663)―唐?新羅連合軍に大敗、朝鮮半島での地盤を失う百済からの亡命貴族を中心に大宰府に水城や大野城を築くなど、対馬から大和にかけて朝鮮式山城を造営―対外防備の強化 高句麗の滅亡(668) ②内政の整備 近江大津宮遷都(667) 近江令制定(668?)―令22巻、 中臣鎌足ら作成 こうねんじゃくだざいふみずきじばんぼうめいめつぼうありまおうじあかえちょうそ新羅の朝鮮半島統一(676) 庚午年籍(670)―初の全国的戸籍、氏姓を正す根本台帳として永久保存 c.壬申の乱672年 ①原因―皇位継承問題、朝廷をとりまく豪族の対立 大友皇子(天智天皇の子)―近江朝廷 おおあまのみこじんしん大海人皇子(天智天皇の弟)―吉野方、大和地方の豪族の支持 ②結果―吉野の勝利 おおあまのみこ大海人皇子が飛島浄御原宮で即位―天武天皇となる あらひとがみあすかきよみはらd.天武天皇の政治(673~686) ①天皇の称号使用、権威高揚(神格化) てんじやくさ現人神思想の成立 ②天智朝で復活した部曲の廃止(675)―公土公民制の徹底など律立国家建設を推進 ③八色の姓制定(684) へんさんかばね身分秩序の再編成 まひとあさみすくねいみきみちのしいなぎ―真人?朝臣?宿禰?忌寸?道師?臣?連?稲置 ④国史の編纂(未完成) ひえだのあれ稗田阿礼に「帝紀」「旧辞」を詠み習わす こういんねんじゃく『古事記』の成立(712) e.持統天皇=天部天皇皇后の政治(686~697) ①飛島浄御原令の施行(689)―庚寅年籍(690)作成、6年ごとに戸籍作成 ②藤原京の造営(691~694)―唐の都城制を模した最初の宮都

?改新政治の矛盾

改新政治が進められていく間、政界ではいくつかの事件が起こった。 1)蘇我倉山田石川麻呂事件(649年) 2)天皇と皇太子の対立(653年)

3)有間皇子の反乱(658年)―蘇我赤兄が皇子に反乱をすすめ、殺された。

?白村江の敗戦

百済援助のため、661年、斉明天皇みずから出兵したが、九州朝倉宮で急死し、中大兄

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ありまおうじ

あかえ

やまだいしかわまろ

皇子が皇太子のままで軍政を行った。662年には、援軍と莫大な軍需品を朝鮮半島に送ったが、翌663年には、日本軍は、白村江で唐?新羅連合水軍に敗北し、百済の復興は失敗に終わった。

こののち、高句麗の滅亡し(668)、さらには唐の干渉をも排して、新羅の朝鮮半島を統一した(676年)。

?天智天皇の政治

(皇太子のまま称制、のち即位668~671) 近江遷都の翌668年、斉明天皇の死後も

6年間、皇太子にとどまって、称制を行っていた中大兄皇子即位した。天智天皇である。

?壬申の乱―皇位継承問題、朝廷をとりまく豪族の対立 要因――この乱については、古くから諸説がある。 1)大海人皇子が改新政治の保守的修正をめざしたもの。 2)改新政治が保守したのを大化の理想に復興したもの。 3)近江方の旧門閥頭政治に対する下級官僚層の勝利したもの

4)中央集権的な国家体制の成立にともない、徭役労働を中心とする負担が重くなり―

―それが乱の基本的な要因だとする見解がある。

結果―吉野に入った大海人皇子が勝利し、飛島浄御原宮で即位し、天武天皇となった。

?大海人皇子

おおあまの

あすかきよみはら

じんしん

めつぼう

えんぐんばくだいぐんじゅひん

なりあきてんのうしご

しょせつ

おおあまのまの

ふっこう

おうみがたきゅうもんばつあたませいじたいかきゅうかんりょうそう

ようえき

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?天武天皇の政治(673~686)

天武天皇在位中は、大臣が置かれず、強力な天皇専制支配体制が確立され、天皇の称号使用し、天皇の神格化もはじまった。

大化改新期の女帝、皇極?斉明天皇(在位 642-645,655-661)について見ていきます。 第41代持統天皇(称制 686-689,在位 689-697)と第43代元明天皇(称制 707,在位 707-715)は、第38代天智天皇の皇女であるから、「男系女子」による継承と言う事になる。持統天皇は天智天皇の「弟」である第40代天武天皇(「天武天皇」については、史書の記述の矛盾から、天智天皇の弟では無かったと考える。

?大化の新政府

皇極天皇は、孝徳天皇に譲位し、新政府の人事が定まった:

皇太子――中大兄皇子 左大臣―阿倍内麻呂 右大臣―蘇我倉山田石川麻呂 内臣―中臣鎌足 国博士―高向玄理?旻 という陣容である。

元号――大化と定められた。(645.6) 都――飛島から難波に移した。(645.12) ?改新の詔

翌年646年正月、天皇は難波宮において、4条からなる「改新の詔」をだし、新政府の改革の根本方針を示した。その内容は、次のとおりである。

(1) 公土公民制――豪族の田荘?部曲を廃止して、土地と人民を国家の直接支配とし

た。

(2) 地方行政組織――中央官制の整備、地方行政組織「評」の設置した。 (3) 班田収授の法――戸籍?計帳を作り、班田収授法を定めた。 (4) 税制度――全国的な人民?田地の調査、統一税制の施行をめざす

?改新の詔の意義

この詔は、のちの令文との類似点が多く、これらが実行されるのは、7世紀後半期で、当時実行されたものではない。実際にだされたとしても方針にすぎない。

れいぶん

るいじてん

ぜいせい

しこう

せいび

こほり

たそう

ぶきょく

くらやまだいしかわま

うちつおみ

べないま

てんむ

じとうげんめい

てんむ

じんよう

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5 白鳳文化

要点: 飛島文化に続く7世紀後半から8世紀初頭の文化、天武?持統天皇時代中心の文化―白鳳文化 a. 文化の特色 ①律立国家の形成期にふさわしい清新な気風にみちた文化 ②初唐文化の影響を受け、仏教興隆策による仏教文化 b. 仏教の国家保護 官大寺制―官立の大寺院 大官大寺―(大安寺)?薬師寺?元興寺などの建立、地方寺院の建立 c.建築 薬師寺―天武天皇の創建、東塔は現存 d.彫 刻 ①薬師寺金堂薬師三尊像―中央に薬師如来、左右に日光?月光の脇侍 ②薬師寺東院堂聖観音像―白鳳期の仏像の様式を示す ③興福寺―旧山田寺薬師三尊像の本尊の頭部 ④法隆寺阿弥陀三尊像?夢違観音像 e.絵画?工芸 ①法隆寺金堂の壁画―1949年焼損、インドや西域の影響を受ける ②高松塚古墳の壁画―1972年発見、高句麗の影響が認められる ③水煙―薬師寺東塔の頂上にあり、天女と飛雲を配している f.文 学―宮廷儀式の発達にともない、歌手輩出 ①漢詩―大友皇子?大津皇子ら のち『懐風藻』に収録 のち『万葉集』に収録 かいふうそうかきのもとまろすいえんやくしじひがしとうてんにょひうんはいこんりゅうじとう②和歌―女性歌手額田王?柿本麻呂?持統天皇ら

?白鳳文化の特性

飛島文化に続く7世紀後半から、8世紀初頭、すなわち、天武?持統天皇の時代を中心 とした文化を白鳳文化という。

この時代は、古代国家が確立する時期に当たり、中央貴族のあいだでは緊張した清新な空気が流れる。対外には、遣唐使による初唐文化の影響を受けて、いまだ未完成であるとはいえ、創造力?生命力の充実した文化であった。やがて、これが円熟し、天平文化が形成されるのである。 ?国家仏教の端緒

この時代には、道教の受容も進んだが、仏教は貴族?豪族層により広まり、各地に寺院が建立された。それが、仏像など造形文化に一つの特色をもたらした。 官大寺制―官立の大寺院

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ぶつぞう

ぞうけい

きぞく

ごうぞくそう

えんじゅく

てんぴょうぶんか

けんとうし

はくほう

しょとう

てんむ

じとう

―(大安寺)?(2)?元興寺などの建立、地方寺院の建立

584年9月,百済から鹿深臣が弥勒菩薩(みろくぼさつ)石像一体と佐伯連が仏像一体を持ってもどってきた。蘇我馬子は全国に修行者を探させたところ,播磨にいた恵便(えべん)という高麗からの渡来人がいることがわかった。そこで恵便を仏教の師とし,さらに3人の娘を出家させて尼(あま)とした。また,自分の家の東に仏殿を建立し,弥勒菩薩の石造を安置した。また,馬子は石川の自宅-石川精舎(しょうじゃ)にも仏殿を建てて仏像を収めた。585年2月には,大野の丘に塔を建てた。

?建 築

仏教の発展にともなって、都をはじめ各地にも豪族によって、寺院が造られた。 ―― 都の近辺には、弘福寺?薬師寺?大官大寺?山田寺などがあり、 地方では、観世音寺?崇福寺などが天智朝に造営された。 中でも、この時代の建築様式を示す代表は、薬師寺東塔である。 ?彫 刻

前半は、飛島時代の様式が継続され、後半には、唐の影響があらわれる。 ――薬師寺の聖観音像(東院堂)?薬師三尊像(金堂)は、最高傑作である。 ほかには、興福寺仏頭?法隆寺阿弥陀三尊像?夢違観音像がある。

こうした仏像とともに、30cm前後の小金銅仏が多数作られたことも注目される。

?絵画?工芸

絵画を代表するものは、法隆寺金堂壁画で、1949年に焼失してしまったが、この技法はインド?グプタ時代のアジャンタの壁画に源流をもち、大陸から渡来したものといわれ、大陸文化流入の一例である。

高松塚古墳壁画は、極彩色で写実的な男女の人物像や玄武などの四神が描かれており、朝鮮半島との文化が推測される。

欽明(きんめい)天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきであると蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が答えたのに対して,物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ:天智天皇時代の中臣鎌子?鎌足とは別人でつながりのない人物)らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにと,これらを蘇我大臣稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。

国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教のせいだと批判した。そのため,570

すいそく

りゅうにゅう

しょうしつ

しょうかんのん

ぐふく

しょうじゃ

めぐみびん

かふかのおみ

みろくぼさつ

さえきれん

こんりゅう

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年に稲目が死去すると,天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払った。家は焼けても仏像は燃えなかったため,仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだ。しかし,疫病はなくならず天災も続いた。

後に推古天皇はここ向原の地を宮とした。小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となった。 ?和歌?漢文学

この頃になると、それまで一句の音数の定まらない自由な形式であった歌謡も、しだいに五七調の定形にととのいはじめて、和歌の完成となり、初期万葉の文学を生んだ。 第1期(舒明から天智にいたる)――天智天皇?額田王?有間皇子など皇室歌人が有

名である。

第2期(壬申の乱から平城遷都にいたる)――天武?持統天皇とともに、宮廷詩人柿本

人麻呂が出て、比類のない皇室賛歌を作り上げた。

ひとま

かきのもと

ぬかたのおおきみ

持統天皇

舒明天皇の歌

その歌は、人間の真情を格調高く歌いあげたが、しかし、その基調が天皇への賛歌として成立したことは、この時代のあり方をもっとも端的に示している。

初唐の文化の移入とともに漢詩も流行し、奈良時代に編纂された『懐風藻』には、この時代の詩人16人、28篇の漢詩が収録されている。

その多くは、模倣の域を出ていないが、中には、大友皇子?大津皇子のように、隋唐の作品以上といわれるほどの才能を示したものもある。

かいふうそう

さんか

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?暦の伝来

?観勒 観勒は百済の僧侶で、日本へ602年に来航する。天文、暦本、陰陽道を伝える。

暦本は604年に聖徳太子によって採用された。後に日本で最初の僧正に任命された。

そうじょう

かんろく

?暦の伝来 中国の暦が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『日本

書紀』には553(欽明天皇14)年に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも6世紀には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、この時、伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。また、602(推古天皇10)年に百済から学僧観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。 官暦として正式に採用されたのがいつからであるかについては諸説ある。平安時代に編集された『政事要略』という本には604(推古天皇12)年から、初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では690(持統天皇4)年の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事がはじめてであり、正式採用は692(持統天皇6)からという説がある。

ぎほうれき

げんかれき

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本文来源:https://www.bwwdw.com/article/gfw6.html

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