川端康成略史
更新时间:2023-08-12 06:19:01 阅读量: 外语学习 文档下载
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1. 略年譜
一八九九年
(明治三十二年)
大阪市北区此花町に、父川端栄吉、母ゲンの長男として生まれる。
一九二○年
東京帝国大学文学部英文科に入学し、学生時代に今東光らと第六次「新思潮」発刊する。
一九二四年
卒業後、横光利一と「文芸時代」を創刊。
「新感覚派」とよばれる。
一九二六年
(27歳)
『伊豆の踊子』を発表
一九三七年
『雪国』を刊行
一九四八年
(49歳)
日本ペンクラブ第四代会長に就任
一九六八年
ノーベル文学賞を受賞。
一九七二年
(72歳)
仕事部屋にてガス自殺。鎌倉霊園に埋葬される。
2.幼年時代
氏の年譜で特筆すべきは、幼年時代に降りかかる身内の死。
二歳のときに父を、三歳の時には、母を失ってしまい、姉芳子とふたりきりになってしまいます。氏は、大阪府三島郡豊里村の母の実家に引き取られ、姉は伯母の家に預けられます。氏が七歳のとき祖母が死に、十歳のときに生き別れになった姉が亡くなってしまいます。以後祖父と二人暮しを続けましたが、十六歳のとき祖父が亡くなって、とうとう天涯孤独な孤児となってしまいます。
3.孤児根性
氏のいう「孤児根性」とは、世間一般ですぐに想像される「性格上のひねくれや陰気さ」ではなくいようです。
氏は悲しみ方を知らない幼年時代から数多くの「身内の死(血縁の強い人たちから)」に接し、彼独特の「生死観」を抱くようになります。
氏の初期の小説に『葬式の名人』があり、その中で
「??????生前私に縁遠い人の葬式であればあるだけ、私は自分の記憶と連れ立って墓場に行き、記憶にむかって合掌しながら焼香するような気持ちになる。だから少年の私が見も知らぬ人の葬式にその場にふさわしい表情をしていたにしてもいつわりでなく、身に負う
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ている寂しさの機を得ての表われである。」
この「身に負うている寂しさ」が、言わば「孤児の感情」なのです。それは後々までも、氏の文学の一つの根となっています。
4.「旅情が身についた」
修善寺の「湯川橋」で踊子たちを遭い、「私」は「旅情が身についた」と感じます。
彼は自分自身の不幸な生い立ちによってゆがんだ人間になったという「自己嫌悪」と、そのような境遇に甘える「自己憐憫」という二つの「精神的疾患」の治癒を願って伊豆の旅に出かけます。その旅のはじめに踊子たちと出会います。「孤児根性」から脱け出すことができるかもしれないという明るい喜びの予感が、踊子たちを振り返るたびに沸々とこみ上げてきたのでしょう。
『湯ヶ島での思ひ出』でも、旅芸人との出会いのくだりの書出しに、同じ言葉が使われています。
「温泉場から温泉場へ流して歩く旅芸人は年と共に減ってゆくようで、私の湯ヶ島の思い出は、この旅芸人で始まる。初めての伊豆の旅は、美しい踊子が彗星で修善寺から下田までの風物がその尾のように、私の記憶に光り流れている。一高の二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してから初めての旅らしい旅であった。修善寺に一夜泊まって、下田街道を湯ヶ島に歩く途中、湯川橋を過ぎたあたりで、三人の娘旅芸人に行き遇った。修善寺に行くのである。太鼓をさげた踊子が遠くから目立っていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が身についたと思った。」
5.「いい人はいいね」
「私」は「自分がいい人に見えることは、言いようなくありがたい」と思います。
もうすこし詳しく「私」の心情を「湯ヶ島の思ひ出」で述べています。
「旅情と、また大阪平野の田舎しか知らない私に、伊豆の風光とが、私の心をゆるめた。そして伊豆の踊子に会った。いわゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野の匂いがある正直な好意を私は見せられた。いい人だと、踊子が言って、兄嫁が肯(うべな)った一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかった。いい人かと思った。そうだ、いい人だと自分に答えた。平俗な意味での、いい人という言葉が、私には明りであった。湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道連れになれたと思う、そうなれたことがうれしかった。」6.物ごい旅芸人村に入るべからず
小説中には、旅芸人が卑しまれた職業であることを示す表現がちりばめられています。
「お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」という天城峠の茶店の婆さん。
「あんな者にご飯を出すのはもったいない」という宿のおかみさん。
そして「物ごい旅芸人村に入るべからず」という立て札。
旅芸人に対する世間の偏見が強ければつよいほど、「私」がいかに「いい人」
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であるかが際立ってきます。
しかし「私」は声高かに差別に対して反論したりしません。
山本健吉氏の評論によると、
「そのような立て札は、本当は村々の貧しさをも物語っているが、その反面の真実はここでは切り棄てられる。村々から拒まれた「物乞い旅芸人」の世界のあわれさが、ここでは抒情の種になる。」
7.「いいえ、今人に別れて来たんです。」
「私」は船の中で、同室の少年のマントの中にもぐり込んで泣きます。
氏は「私が二十歳の時、旅芸人と五、六日の旅をして、純情になり、別れて涙を流したのも、あながち踊子に対する感傷ばかりではなかった。」と言っています。
「私」は、自分をゆがんだ人間、小さな殻に閉じ籠ったいじけた人間と自己嫌悪すると同時し、少年らしく甘えている感傷を抱えていました。
そんな「私」は、伊豆の旅で人の好意にふれ、「こんな人間の私に対しても」と、「ありがたい」と感じます。
「感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。長い病人でいたほどでもないと思うようになったのである。これは私によろこびであった。私がそれを気づいたのは、人々が私に示してくれた好意と信頼とのお蔭である。これはどうしてと私は自分をかえりみた。それと同時に私は暗いところを脱出したことになったのである。私は前よりも自由にすなおに歩ける広場へ出た。」と氏は述懐しています。
「下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば夢のようである。幼いことである。」(「湯ヶ島の思ひ出」より)
8.?伊豆の踊子」の創作動機
氏が「伊豆の踊子」を書いたのは大正十五年ですが、その原型となっているのは大正十一年に書かれた「湯ヶ島の思ひ出」です。
その内容の大部分は、茨城中学の寄宿舎で同室していた清野少年に対する同性愛の思い出で占められ、その残りが踊子との思い出です。
大正十一年は氏にとってどのような年だったのでしょうか。
その前年、氏が二十三歳のとき、あるカフェの女給をしていた十六歳の少女と恋愛をし、菊池寛の好意で家も生活費も手に入れ、まさに同棲生活の準備の整った直前に、相手の不可解な心変りで、あっけなく、わけも分らず別れてしまいます。『湯ヶ島での思い出』を書いた頃は、その恋愛が破局に到った直後の、心にもっとも打撃を負っていた時で少年時代の同性愛の相手や、ほのぼのとした愛情を掻き立てた伊豆の踊子を思い出すことで、心の傷をいやそうとしているようです。
氏は『全集』第二巻のあとがきに以下のとおり書いています。
「『伊豆の踊子』でも『雪国』でも、私は愛惰に対する感謝を持って書いている。『伊豆の踊子』はそれがすなおに現われている。『雪国』では少し深く入って、つらく現れている。」
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と、作者のモチーフの根底に、他者への無私の感謝をひそめていたことを、作者自身告白しています。
9.「伊豆の踊子」の作者であること
作者は次のように述べています。
「伊豆の踊子」の作者であることを、幸運と思うのが素直であるとは、よくわかっている。それになにか言うのはひがごころであろう。
「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。私が伊豆に旅をし、旅芸人が伊豆に旅をしていて、そしてめぐりあった。このめぐりあいが必然であったか、偶然であったか、この問いかけは人間の刻々の生存に問いかけるのにひとしく、人間の一生に問いかけるのにひとしく、私の答えは定まらない。偶然であって、必然であったとしてもいい。しかし、私が「伊豆の踊子」を書いたことによって、そのめぐりあいが必然のことであったかのような思いは、私に強まって来てはいないだろうか。「伊豆の踊子」の作者とされ続けての四十年が、私にそういう風に働きかけてはいないだろうか。
「伊豆の踊子」は私には稀なモデル小説である。「雪国」もモデル小説とされているようで、作者がそれを頭から否定するのはまちがいであろうが、私はモデル小説とは思っていないところがある。少くとも「伊豆の踊子」のようなモデル小説ではない。
「伊豆の踊子」では「雪国」ほど、モデルにたいしておのれをむなしゅうはしていない。
「伊豆の踊子」よりもなおモデルに忠実な私の小説に「名人」がある。これこそ私が見たまま感じたままの忠実な写生にもとづいている。「名人」では作者は首尾観察者、記録者であって、おのれをまったくむなしゅうしているかのようである。したがって「名人」の「私」を私として論じた評家はほとんどない。それを最も論じてくれたのは胡蘭成氏であろうか。「一中国人が川端文学をかう読む」と題する、原稿紙二十四枚におよぶ随想をおくられたのは、三月ほど前であった。「伊豆の踊子」、「名人」、「雪国」にも言及されているが、作者の「私」がおのれをむなしゅうすることに、東洋の風を見るという。
しかし、私は胡蘭成氏の見解にあまえるわけではなく、小説家としての私の資質に疑いは絶えないのであって、「伊豆の踊子」、「雪国」などの作品の運のよさの、羞恥、苦渋にさいなまれがちである。齢七十になって、四十年前の「伊豆の踊子」を断ち切ろうとしてもゆるされないのみか、この小篇からいまだにすくなからぬ恩恵を受けつづけていることは否めない。見知らぬ読者から、「伊豆の踊子」の踊子の墓はどこにあるかと問われたりすると、天城越えの道はすでに長年「伊豆の踊子」の歌枕になっていることも思われて、よろこびやなぐさめとは逆の感情に沈みこむのは、私がなにかの恩を知らないでさからうことなのだろうか。
(「一草一花」より)
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川端康成の「雪国」を歩く(上)
今週は再び川端康成特集にもどり、「文学の舞台を歩く」の第二回として「雪国」を歩いてみたいとおもいます。雪国は御存じの通り、越後湯沢を書いた小説ですが、作者が意図したのか、作品のの中には越後湯沢という地名は一切出てきません。
<川端康成「雪国」>
この「雪国」という小説は、当初から考えられていた小説ではなく、幾つかの小説を推敲してまとめて昭和12年に「雪国」として発表したものです。川端康成は「雪国」を昭和12年で終わらせず、戦後の昭和22年に書いた「雪中火事「と「天の川」の二つを加えて、昭和23年決定版「雪国」として再び出版します。現在の「雪国」は、これが底本となって出版されています。まず最初に書かれたのは昭和10年の「夕景色の鏡」で、あの有名な書き出しは当初は「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった。」となっていましたが、決定版では「国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」と書かれています。ここばかりではなくて、その他の部分でもかなり修正しています。ですから、「雪国」は時が経つほどにどんどん長くなって行った小説です(つまり、戦前と戦後で長さか違う小説の「雪国」です)。岩波文庫の”あとがき”に川端康成本人が書いています。「「雪国」は昭和九年から十二年までの四年間に書いた。年齢にすると三十六歳から三十九歳で、三十代後半の作品である。息を続けて書いたのでなく、思い出したように書き継ぎ、切れ切れに雑誌に出した。そのための不統一、不調和はいくらか見える。はじめは『文芸春秋』昭和十年一月号に四十枚はどの短編として書くつもり、その短編一つでこの材料は片つくはずが、『文芸春秋』の締切日に終わりまで書ききれなかったために、同月号だが締切の数日おそい『改造』にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加わるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがったものになったのである。私にはこんなふうにしてできた作品が少なくない。この「雪国」のはじめの部分、つまり昭和十年一月号の『文芸春秋』と『改造』とに出した部分を書くために、私はこの「雪国」の温泉宿へ行った。そこで自然と「雪国」の駒子にもまた会うようなことになった。はじめの部分を書いている時に、あとのほうの材料ができつつあったと言えるであろう。またはじめの部分を書いている時に、おしまいのほうの材料ほまだ実際におこっていなかったというわけである。」、と書いています。かなり正直に書いてい
ますね。
★左上の写真は私の手元にある「雪国」です。順に紹介すると、左上が昭和12年版創元社の「雪国」(初版本ではありません)、右上が鎌倉文庫の昭和21年版「雪国」(創元社版と内容は同じです)、下の段は、左から新潮文庫、角川文庫、岩波文庫です。
川端康成の「雪国」年表
出版時期出版会社「雪国」関連出版物
昭和10年文藝春秋、改造他「夕景色の鏡」、「白い朝の鏡」、「物語」、「徒労」、「火の枕」、
「手鞠歌」
昭和12年創元社上記をまとめて推敲し「雪国」として初版発行
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昭和21年鎌倉文庫上記の「雪国」と同一
昭和22年公論、文藝春秋他「雪中火事」、「天の川」
昭和23年創元社決定版「雪国」:昭和12年の創元社版に昭和22年の「雪中火事」、「天
の川」を加えて決定版とした。
昭和22年新潮文庫決定版「雪国」と同一、初版
昭和27年岩波文庫決定版「雪国」と同一、初版
昭和31年角川文庫決定版「雪国」と同一、初版
<JR上越線上牧駅(かみもく)>
川端康成が小説を書きに行く場所は熱海から伊豆方面が多かったのですが、「雪国」の元ネタをを書き始めた昭和9年頃には上越の温泉に行く様になります。川端秀子さんの「川端康成とともに」では、「川端が湯沢に行ったのは年譜などでは昭和九年五月となっていますが、実際は六月に入ってからです。五月に水上から湯檜曾に行き、それから水上駅の一つ手前の上牧駅前の大室温泉旅館に行っています。……とに角お金がなくて、原稿をたくさん書かなくてはならなくて、そのための大室温泉行きでした。群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館から私あての手紙が四通(六月八日、十日、十一日、十二日)あります。」、と書いています。上牧駅は水上駅の一つ上野寄りです。上牧駅前の大室温泉旅館に宿泊したと書かれていたので、上牧駅周辺で地元の人に聞いてみましたが大室温泉旅館の所在は不明でした。川端康成自身は上牧温泉と書いていますので、間違い
ではないかとおもいます。
★左上の写真が上牧駅です。田舎のひなびた駅の雰囲気があり、プラットホームは駅裏の丘の上にあります。写真の裏手方面が上牧温泉で現在は5軒の旅館があります。
<JR上越線水上駅>
川端康成自身が上越の温泉に行ったときのことを書いています。『「雪国」を書く前私は水上温泉へ幾度か原稿を書きに行った。水上の一つ手前の駅の上牧温泉にも行った。そのころ深田久弥君や小林秀雄君はよく谷川温泉へ行っていた。』、水上にも宿泊したと書いていますが秀子さんは、「上牧駅では鉄道便も送れず、電報も打てないので、原稿が書きあがるたびに自動車で水上駅に行って出し、湯原局にまわって電報を打つというくり返しで
した…」、と書いています。
★右の写真がJR上越線水上駅です。太宰治が初代と自殺しかけたなど、文士たちがたび
たび滞在していた温泉町です。
<JR上越線越後湯沢駅>
川端康成は水上温泉から先(三国峠を超えると新潟県南魚沼郡)へはなかなか行く機会がなかったようです。『水上か上牧にいた時私は宿の人にすすめられて、清水トンネルの向こうの越後湯沢へ行ってみた。水上よりはよほどひなびていた。それからは湯沢へ多く行った。上越線で湯沢は越後の入り口になったが、清水トンネルの通る前は、三国峠越えはあっても、越後の奥とも言えたのである。三国峠のふもとの法師温泉は直木三十五氏が
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ことに好きで、私も池谷信三郎君と二人で直木氏に連れられて行ったことがある。直木氏は法師から湯沢へ三国峠を越えたこともあったようだが、私は歩いたことはない。』、と書いています。ちなみに清水トンネルが完成し上越線が全通したのは昭和6年(1931)9月ですから、開通した数年後に川端康成は越後湯沢を訪ねたことになります。一度は清水トンネルを通ってみたかったようですね。清水トンネルが完成する前に新潟を訪ねるには信越線軽井沢経由(高崎から直江津まで信越線が開通したのは明治26年です)で、長野から直江津周りで行くしか方法がありませんでした。
★左の写真がJR上越線越後湯沢駅です。上越新幹線と同じ駅で冬はスキー客で賑わう駅
になっています。
<高半ホテル(高半旅館長生閣)>
川端康成が「雪国」を書いたのがこの旅館です。越後湯沢駅からは1.6Km(徒歩約20分)位で、がーらゆざわ駅の手前といったほうが分かりやすいかもしれません。高半旅館自体は800年の歴史があり(川端康成が滞在した長生閣は清水トンネル完成時に建設されたようです)、当時は木造三階建てで、正面入口も現在とは違って、湯本共同温泉の方の坂の上にありました(地図を参照して下さい)。川端康成は高半旅館に滞在していた昭和9年12月に菊池寛の秘書と秀子さん宛他三通の手紙を出しています。秀子さん宛には、「四方の山も野も雪で白い。昨夜の寒さは当地でも今冬で珍しいらして汽車を下りると、宿の番頭等火事場の消防みたいな防寒服装で、肝をつぶした。……中央公論の原稿を出しに駅に行って送ったところ。文藝春秋はまだ書くことがきまらぬ。今から考える。空気の厳しきは仕事出来さうでよろし。雪はまだ野が二三尺。この間の一尺ばかりのがそれだけ解けたのだ。盛りは一丈以上の申。目下客は殆ど全くない。この前の部屋。文藝春秋の原稿駅で受け取ったら、なるべく早く稿料貰って、百円ばかり電報で送って下さい。…」、と書いています。「文藝春秋に書くことがきまらぬ」と書いているのが、「雪国」の元原稿の「夕景色の鏡」になります。ただこの時は「文藝春秋」の翌年1月締め切りに「夕景色の鏡」の全ての原稿が間に合わず、「改造」に続きとして「白い朝の鏡」を書きます。ですからこの二つで「雪国」の一番最初の原稿になるわけです。
★右上の写真が冬の高半ホテル正面玄関です。夏の高半ホテルの写真も見て下さい。
★左の写真は現在の高半ホテル前から湯沢町を一望したものです。夏の高半ホテルからの
風景も見て下さい。
次回は「雪国」の本に沿って歩いてみたいとおもいます。
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●川端康成の「雪国」を歩く(下)2003年4月12日V01L01
今週は”川端康成の「雪国」を歩く”の第二回目として、小説「雪国」に沿って歩いてみたいとおもいます。写真撮影は冬と夏の二回行いましたので、冬夏とも掲載しておきます。風景の違いを見て戴ければとおもいます。
<国境の長いトンネル(清水トンネル)>
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川端康成の「雪国」の書き出し、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」、は教科書にも出てくる、あまりにも有名なフレーズです。”川端康成の「雪国」を歩く(上)”でも書きましたが、JR上越線は水上-越後湯沢を結ぶ清水トンネルの完成により昭和6年全通します。しかし清水トンネルは単線で、複線になるには昭和42年の新清水トンネル完成を待たなければなりませんでした。昭和57年に上越新幹線が開通したため、水上駅と越後湯沢駅間は一時間に一本程度しか列車は走っていません。清水トンネルは上り専用で、新清水トンネルが下り専用です。
★左の写真は冬のJR上越線清水トンネル土樽口です(夏の清水トンネル土樽口写真)。越後湯沢駅から車でむかうと10Km程の距離です。夏ですとトンネル入口近くまで簡単に辿り着くことができるのですが、冬ですと土樽駅までが限度の様で、その先は雪の中を歩いてトンネル入口までいきます(長靴を履いていきましたが大変でした)。清水トンネル土樽口と新清水トンネル土樽口はすぐ近くで、関越自動車道路も横を走っています。(冬
の写真、夏の写真)
<信号所(土樽駅)>
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。」、当時は駅はなくて信号所だったようです。現在は土樽駅となり、上り清水トンネルと下り新清水トンネルに分かれていた線路がここで一つになります。残念ながら無人駅となっており駅長さんはいませんでした(ホームの雪かきをしている人がいました)。
★右上の写真が現在の土樽駅です。越後湯沢方面を撮影しています。駅は無人駅ですが、写真の左手に土樽スキー場があり、駅の中を通ってスキー場に行ける様で、自由に駅構内
に入れました。(駅正面の写真)
<狛犬の傍の平な岩(諏訪神社)>
「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」「ここの芸者って、みなあんなのかね。」「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」ヒ、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。島村は杉の梢を見上げた。」、ここに出てくる神社は高半旅館から少し下った所にある諏訪神社です。元々この神社は麓から一直線に参道があり、階段を上がった正面に社殿が建っていたのですが、昭和6年上越線が開通したため、一直線の参道が切れて、左側から迂回する参道になっています。その上、上越新幹線が神社のすぐ上を通ったため、正面に会った神殿を右側に移動しています。(冬の社殿写
真)
★左の写真が諏訪神社の鳥居前から山麓方向を写したものです(冬の写真)。写真の参道の左右に狛犬があり、右側の杉の木の下に上記に書かれている平らな岩があります。冬は
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雪に覆われてしまい神社内に入ることができませんでした。
<駒子の家(置屋の豊田屋)>
駒子の家に行く場面があります。『「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」「君の家がここか。」「ええ。」……駒子は低い石垣のなかへ入った。右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池の氷は緑に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑らな屋根は板が腐って軒に波を描いていた。土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。上の部屋もほんとうに屋根裏であった。「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう。」「これで、酔っ払って帰って、よく梯子を落ちないね。」「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ。」と、駒子は火燵蒲団に手を入れてみて、火を取りに立った。島村は不思議な部屋のあり悠まを見廻した。低い明り窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は新しく紺り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にも丹念に半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。…しかし壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。』、駒子のモデルである芸者「松栄」が昭和初期に住んでいたのが置屋の豊田屋です。ですから駒子の家は豊田屋になります。湯沢町歴史民族資料館「雪国館」のなかに豊田屋の「松
栄」の部屋を移築して展示しています。
★右の写真が置屋の豊田屋跡です。諏訪神社記すぐ側で、JR上越線の線路際になります。
(夏の写真)
<共同湯>
「雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキ?が干し並べてある、そのほのかな徴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。」、ここに出てくる共同湯が現在の「山の湯」
です。
★左の写真が共同湯「山の湯」です。私も入ってきました。この温泉はまったく沸かしておらず、温泉そのものだそうです。前に駐車場もあり、誰でもが入れる共同湯です。
次回が「川端康成を歩く」の最終回、「大阪?茨木を歩く」です。やっと最後まできました。
<川端康成の「雪国」地図>
川端康成相关评论
川端康成の生前に発表された最後の創作は『隅田川』であった。敗戦の後に断続的に発表された『反橋』『しぐれ』『住吉』の連作と思われるもので、いずれも「あなたはどこ
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においでなのでしょうか」という共通の書き出しをもっている。題名の拠りどころとなっている謡曲『隅田川』は、知られるように、攫われたわが子を尋ねて狂い、はからずも人の口にその死を知る母をうたう曲である。「あなた」は、不在によっていかようにも彩られる母なる人か。『梁塵秘抄』の讃える仏か。それとも永遠なるものの同義語であるか。そのいずれでもなく、そのすべてでもあり得るような作品を遺して凡そ半年の後に、作者は自ら帰らぬ人となっている。
病床にある盲目の祖父との生活を断片的に記録したかたちの『十六歳の日記』は、その瑞々しさにおいて『伊豆の踊子』と並ぶ作品といえよう。門を閉した家で、死期の迫っているただ一人の肉親を看ては中学に通う少年の目には、涙も怒りも眠りもあるのに妥協はなく、当事者でありながら同時に傍観者でありつづけるという目と物との関係は、この日記においてすでに定まっている。
東大在学中の『新思潮』創刊、『文芸春秋』同人への参加、プロレタリ?文学雑誌『文芸戦線』に拮抗するように、第一次大戦後のヨーロッパ前衛文学の影響を積極的に受けながら新しい感覚の文学を志した『文芸時代』の創刊、芥川賞詮衡委員、海軍報道班員、日本ペンクラブ会長、ノーベル文学賞受賞と辿ってくると、まぎれもなく時の世の人として生きた川端康成の軌跡は明らかである。
しかし、その軌跡に、さきの日記をはじめとして、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『名人』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『片腕』などの作品を改めて辿る時、いかなる時の世にも義理立ても心中もしなかった作家川端康成の軌跡もまた明らかとなる。『十六歳の日記』へのなつかしさが、単なるなつかしさを超えるのはそういう時である。ここには、およそ無駄と名づけられるものの見出しようがなく、勁くて撓やかな言葉は、湧き水のような行間の発言と相携え、澄んだ詩となってこの作品を陰惨から救っている。
二、三歳で父と母を、七歳で祖母を、そして十五歳までに、たった一人の姉と、祖父とをことごとく死界に送った人の哀しみは、遺された作品に探るほかはない。「孤児意識の憂鬱」から脱出する試みを、行きずりの旅芸人への親和のうちに果している『伊豆の踊子』は、川端康成には珍しく涙の爽やかな作品で、ここでは、自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解が、一編のかなめとなっている。二十歳の「私」の高等学校の制帽も、紺飛白の着物や袴、朴歯の高下駄も、すべて青春の意匠にはちがいないが、『伊豆の踊子』の「青春の文学」たる所以は、ほかならぬこの和解の切実さにある。
旅芸人の一行と別れて後の「私」の涙を、感傷と呼ぶのは恐らく当っていない。それは偶然の恩寵によって、過剰な自意識という高慢の霧の吹き払われたしるしなのであり、そうであればこそ、「どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような」、そして、自分をとりまく「何もかもが一つに融け合って感じられ」るような「私」の経験を、読者もまた自分のものとなし得るのである。
与し難いこの世との最初の和解の契機は、それこそ人さまざまであろう。十四歳の可憐な踊り子との束の間の縁を、そのような契機となし得るか否かも心々である。そしてこの和解が、文字通り不可解なこの世との最初の和解でしかなかったにしても、青年と少女とのこうした出会いと別れに、『禽獣』や『山の音』、『眠れる美女』にいたってそれぞれ別様に充実する、憧憬や思慕はあるのに陶酔を許さないという川端文字の特色をいち早く嗅ぎつけることもできるだろう。あの、「どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような」気分が、一方で、「美しい空虚な気持」として「私」に実感されて
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いるのを見落してはならない。
戦前の作を代表する『雪国』に、故意か偶然か、同類の言葉が繰り返されているのは興味深いことである。「駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれども反ってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの女にも惹かれるのだった。」
生存の悲しみを「夢のからくり」とながめる男に配された女の「徒労」は、この作者の、意志とよぶにはあまりに野放図な、そしてまた、忍耐というにはあまりにも楽天的な相貌の陶酔の拒否、あるいは虚しい共存容認に根を下ろしている。俗悪なものにも、高貴なものにも、透明な目で無差別の熱烈な交わりをつづけながら、あらゆる物から離れて立ち、しかもあらゆる物を精力的に容認するというこの世の愛し方は、川端康成をたとえば横光利一のように、「西方と戦った新しい東方の受難者」にも、また、「東方の伝統の新しい悲劇の先駆者」にもしなかった所以のものであるが、『雪国』と『伊豆の踊子』を分つ一点を、「美しい空虚な気持」に加えられた「美しい徒労」の自覚の介入に絞る時、汽車の窓硝子に映る娘の顔に北国の野山のともし火をともした、あの言挙げされることの多い描写もさることながら、一見何の変哲もないような以下の部分に、かえって鮮烈な作者を見ることも少なくない。
「秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触角を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。」
この一匹の瀕死の蜂は、事、蜂に関する私のあらゆる記憶を妨げはしないのに、読み返す度の私は、蜂というものをはじめて見たようなときめきを記憶に加えるのがつねであった。
『雪国』の分析から、東西のさまざまの観念の抽出を試みるのは読者の自由である。しかし、『雪国』の作者は、直観の自在に遊ぶ人ではあっても、ゆめ論考思索にこもる人ではない。決して満たされない、というよりも満たされてはならない存在への恋を、即物的にも、抽象的にも、また夢幻的にも表現し得る感覚の力は、この『雪国』において、多様性をもってまず確立されたといい得よう。
時に野蛮な頽廃に惹かれ(禽獣)、恋人ともども紅梅か夾竹桃の花となって、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらいたいと願い(抒情歌)、時にまた「あなた」への呼びかけとなり(反橋連作)、谷の奥に山の音を聞いて恐怖におそわれる(山の音)この作家特有の存在への恋が、長い間孤立意識に悩まされた生い立ちによるものとは到底いいきれないにしても、陶酔の拒否によっていっそう強まる渇望のなまなましさから、作家にとって血とは何かの思いにしばしば泥んでしまうのも否定できない事実である。
互いの分身に気づかず生きてきた一卵性双生児の姉妹が、分身を探り当てた後も離れて生かされる『古都』には、こうした血にまつわる渇望の、ひとつの非情な処置を見るのであるが、この処置が、虚しい共存の容認に収斂されてゆくところに、京の四季もこまやかな「古都」と、いわゆる観光小説との明らかな違いもある。
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川端康成の文学における日本をいうことは、よくいわれている割には易しくない。古都や鎌倉が作品の舞台になるからといって、祭や茶の湯、邦楽、日本画についてよく書かれるからといって、それらの作品を観光小説風に扱う冒涜はまことに耐え難い。
「敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。」という一節の有名な「哀愁」は、敗戦を経験した文学者としての、寂しく勁い決意の文章ではあったろう。少なくともそこにあるのは、作者に意識された日本であり、日本人のはずであった。こういう作者の直截の声を求める者には、君と死に別れてのちは、日本の山河を魂として生きてゆこうという「横光利一弔辞」や、ノーベル賞受賞後、スウェーデン??カデミーで行われた記念講演「美しい日本の私――その序説」、さらに又ハワ?大学での、招聘された客員教授としての講演「美の存在と発見」が、当然味読の対象となろう。
しかし、エッセ?ほど直截ではないがエッセ?に劣らず、あるいはそれ以上に雄弁で多面的なのが同じ作者の小説と読む者には、さらに又、川端康成の日本及び日本人に対する意識が、敗戦などで変るはずもないと思う者には、直截な言葉だけをあげて、川端文学における日本がそこに抽出され要約されていると見做すこともまた躊躇われるであろう。
私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダ??ローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋っているということである。しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにもふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学ではなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである。
いうまでもなく、二十世紀の人である川端康成は、すでに在る自国の文学のほか、異国の文学といえば漢文学しか享受できなかった古代の歌詠みや日記物語の作者とちがって、古今東西の文学の広い享受者でもある。『骨拾い』『雨傘』などをふくむ「掌の小説」の闊達な多様性が、もっとも率直かつ雄弁に語っているのもこのことである。谷崎潤一郎の、自国の文学享受が、王朝と江戸と西欧との混淆というかたちで生かされているのに対し、この作家の場合は、王朝と中世と西欧とが重なっていてこれ又独自であり、その中世では、軍記物語のたぐいよりも歌と歌論、つまり詩と詩論のたぐいに、より積極的な関心の厚さが見えるのも注目されてよいことと思われる。
際限のない、渇望としてのみありつづける存在への恋が、物や事の、虚しい共存容認という歯止めをもつ時、ダ??ローグを不可欠とするドラマよりもモノローグと結ぶのはむしろ自然かとも思われるのであるが、ダ??ローグを排除するところでしか成立しない「眠りの美女」の詩または音楽、一見きわめて西欧的なこの密室の性愛さえ、じつはこの作家における和歌的なるものの一つの極北を示しているとみられることにも、川端康成における日本の複雑さを思わずにはいられないのである。
(昭和四十八年六月、作家)
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日语小说赏析--雪国(川端康成)雪国
天の川を最後に眼にしたのは、一体いくつの時の事だったろう。白く、淡く、煙る様な光の帯を見上げたのは、何処でだったろう。
島村が火事の夜に見上げた天の川は、どんな天の川だったのだろう。
川端康成の数々の作品の中で、「どの作品が一番良いと思うか」と問われれば、私は間違いなくこの「雪国」の名をあげる。
川端康成を敬愛する者として、普通の(特に川端康成のフ?ンではない)人は読まないであろう数多ある作品を読んでもいるからには、普通の人がタ?トルも知らない様な作品、例えば「ナ?シッサス」とか、「岩に菊」とかの名をあげた方が明らかに通っぽく、愛好者っぽいのかもしれないが、やはり良いと思える代表作品は、「雪国」、「古都」、「伊豆の踊子」、「眠れる美女」等、誰でも知っている様な作品に帰結し
てしまう。
これらを選んだ根拠は、単純に、純粋に、「切なさ」や「やるせなさ」等、どれだけ心の琴線に触れるか、という事である。
中でも「雪国」は最も心を動かされた作品なのだ。
「雪国」は「伊豆の踊子」にも通ずる系統にある恋愛小説(再び批判を恐れる事なく、恋愛小説という言い方をさせてもらう)である。この2作品は同様に恋愛に伴う喜びと、痛みが描かれているが、それが「伊豆の踊子」では淡く、「雪国」では辛く表現されている。そしてその痛みこそが、おそらく人の心に深く響くのだろう。
そして、その設定、小説の長さ、描写等何を採っても、最も良い形にまとめられていると思われる。
例えば、一般の批評等にも真っ先に挙げられる「夕景色の鏡」の部分の描写は素晴しい。夢幻が車窓を通して、現実と交差する。その描写の美しさは、他に類を見ない。島村が列車で雪国へ向かう中で、東京の自宅という現実世界から離れてゆく過程の様にも思われる。それはある種、逃避であるかもしれないが、この島村という男はその現実から逃避した雪国でこそ、生き生きとした人間味を帯びてくる様に見える。
この物語に登場する駒子は、島村にとっては、逃避世界である雪国での、「実体ある女性としての愛情の対象」であり、現実から離れた世界で夢を見続ける為の女だった。しかし、島村は更に夢幻世界の住人であるかの様な葉子にも心魅かれてゆく。それはさらなる逃避なのだろうか。いや、それよりも、島村は、いや川端は駒子と葉子二人にこそ、同時に理想の女性像を見ていたのではないのか。
物語のエンデ?ングは哀しい。火事場の二階から落下した葉子を抱きとった駒子は、葉子の為に島村をあきらめなければならなかった。そしておそらく、葉子の為に自らの夢を失った生活を送り続けるだろうし、島村も、もう二度と再びこの雪国を訪れる事無く、生気を失ったまま現実世界を生きて行くであろう事を予想させる。
この物語の終わりは、昭和12年の初版当初、二人が別れる前、島村が縮の村を訪ねる描写の前の部分だった。
駒子が、島村の「いい女だよ」という言葉を(あえて極簡単に言ってしまえば)「都合の良い女」という意味に受け取って激怒し、そしてその心を静めて来た朝の描写である。駒子のそんな態度と、初雪をまとった杉林の真直ぐな清さに、彼女の深い哀しみを見、虚無感の様なものを感じながらも、行く末いつまでも今迄と同様に時折この雪
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国にやって来ては、駒子を抱いて生きて行くのだろうと思わせる(同時にそんな事がい
つまで続けられるのか、といった思いも感じさせるが、それは駒子と生きて行く事が
前提の不明瞭さである)。
ところが、川端は初版発刊以降に実際に起きた、火事の事件を題材に、改めて哀しい
終章を用意した。
その最後の章で空に横たわる天の川は、薄く白い。これも又、現実から遠い描写の様
である。この天の川が一体何の象徴であるか、等という何処かの文芸評論の様な事は
言うまい。
川端自身も具体的に何かの象徴として書き綴った訳ではないだろう。それは、おそらく、純粋に、夜空の天の川を見上げた時に、何故か感じる「心地よい恐れ」と「寂しさ」「心細さ」であったのだろう。文中に度々登場し、島村が火事のあわただしさの
中で、そんな不安定な気持を持つ事を直感的に思わせる。そしてそんな背景から「な
ぜか島村は別離が迫っているように感じた」という言葉につながるのである。火事の
隈雑と天の川の冷たく静かな有様の対比は、激しい展開の中で、線の細い、哀しい結
末を予感させる。
「雪国」の駒子にはモデルがいる。松栄という芸者である。
「伊豆の踊子」の薫にもモデルがいるが、この二作の違いは、物語そのものが実話(に
近い)か全くの空想か、という点だろう。「伊豆の踊子」の薫は多少脚色はされている
だろうが、殆ど本人そのもので、駒子の方は「モデルがいる」というだけに過ぎず、
松栄と駒子とは全く違うキャラクターであると川端自身も語っている。
しかし、どうやら川端は駒子にも薫の影を見ていた。そう思うのは私だけだろうか。
さらに言えば、前述した様に、氏は駒子と葉子の二人に薫を重ねていた部分はないだ
ろうか。
薫への想いは、淡いが故に遠く、川端は駒子には、薫で叶わなかった愛欲の対象とし
ての存在を、葉子には滅ぶ事の無い薫の処女性を維持していたのではないのか。
勿論「伊豆の踊子」から「雪国」迄はそれなりの年月の隔たりがあり、氏が薫への愛
を強く抱き続けていたとは考えにくいが、物語を書く時、あの懐かしい薫の(理想の存
在の様な)面影を、頭に描いていたとも考えられる。
今、東京では天の川を見る事は出来ない。それは東京では島村が「雪国」で味わった
様な、愛情を糧にした人間味のある過ごし方が出来ない事を示しているのだろうか。
天の川の無い、現実世界を生きて行くしかないのだろうか。
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I論文のテーマ
物哀れと虚無————『雪国』から川端康成の美の方程式を解析する
物哀与虚无——从《雪国》解析川端康成的美的方程式
IIこのテ-マを研究する目的と意義
1968年、川端康成は雪国、古都,(千只鹤)?を代表作としてノーベル文学賞を受賞した。授賞辞で川端康成は明らかに近代ヨーロッパ現実主義文学の影響を受けたが、それと同時に川端さんはこういう傾向を明確に示した:忠実に日本の古典文学に立脚点を置き、純粋の日本伝統の文学模式を守り、受け継ぐ、それに特に強調したのは:川端さんは彼の作品を通して、落ち着いた筆致で呼びかけている:新たな日本のため、ある古い日本の美と民族の個性を守るべきである。卓越した感受性、ずば抜けている小説技術で、日本人心の真髄を表現した…。これらの評価は極めて確実だとも
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いえる。川端の立脚したのは日本という土地で、その作品の内容、芸術スタ?ルと美感は皆日本伝統の審美意識に恵まれている。小説は創造性に満ちている個体精神活動で,作家の個人経験から離れない、でも作家の個人経験は孤立な存在じゃない、中には民族心理、文化伝統など社会学の要素も溶け込んでいる。川端康成は日本この独特な土地に誕生して日本この独特な民族に属して、古い日本の精髄を吸収した。
芸術作品は芸術家精神世界の外化である。芸術作品を芸術家の審美観念、審美情趣の集中する反映と理解してもいい。川端の日本伝統の審美意識はまさに彼の作品で集中で完璧な表現を示した。だから私たちは川端の審美意識を解析しようとしたら、彼の作品は一番いい道である。川端の美の方程式は非常に複雑であるが、東方伝統の美に根を下ろしている。雪国はその最高の成果で、この手がかりに沿って、川端の審美世界に入り、日本伝統文学の特有の真髄を味わうことができる。
III国内外研究現状
川端康成の作品はもう日本伝統の美を代表するものとみなしている。国内外で川端の作品を研究する学術成果は実り多いである。国内では、たとえば、叶渭渠の《川端康成文学的东方美》、《川端康成·日本美之展现》、《物哀与幽玄---日本人的审美意识》、《日本文学思潮史》、谭晶华の《川端康成传》、中国社会科学出版社の《东方美的现代探索---川端康成评传》などがある。国外では伊藤整の川端康成の芸術1983、川中島秀明の「源氏物语から川端康成まで——日本唯美文学発展歴程」、長谷川泉の川端康成文学を味わう、西田正好の日本の美———その本質と展開などの著書がある。
IV研究中の重点、論点
1、重点:(1)日本文学伝統の審美意識--川端康成の美の根源
(2)雪国の美
(3)川端の美の方程式の解読
2、論点:(1)日本の伝統審美意識の受け継ぎ
(2)川端の人生経歴と時代背景、民族文化特徴
V概況
1、日本文学伝統の審美意識--川端康成の美の根源
1、誠から物哀れまでの発展歴程
2、日本民族独特審美意識の成因
2、雪国の美
2.1.物哀れ
2.2.虚無
3、川端の美の方程式の解読
3.1、伝統審美意識の受け継ぎ
3.2、人生経歴、時代背景、民族文化
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