天津古文化街日语导游词详版20130606

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天津古文化街

现在我们所在的位置就是国家5A级旅游景区---天津古文化街北口。天津古文化街是天津卫的发祥地,早在1404年天津建卫之前就已经形成,是天津市最早的文化、宗教、商贸聚集地。这里还是天津民俗文化和海河文化的汇集地,古文化街东靠海河,西临东马路,北起宫北大街,南至水阁大街,长687米,宽5米,这里在古代是祭祀海神和船工聚会娱乐之场所。古文化街蕴藏着天津的文化积淀。被评为津门十景之一,享有“故里寻踪”之美称。

大家看前面那座建筑就是清政府设立的中国第二家官办金融机构。1902年,直隶总督袁世凯在天津东北角(东马路和北马路交口)建立了“天津官银号”。1932年该建筑损毁。2005年海河综合开发重建了“官银号”,建筑风格完全按照原貌恢复,并在大厅右侧设立了“百年官银号”展室。

我们再看眼前的这座仿清式牌楼上书“沽上艺苑”四个大字,充分展示了古文化街无论建筑风貌,店铺装修、匾额楹联,经营商品都具有浓郁的艺术气息,也是天津卫文化发祥地的意思,漫步古文化街上足以让您赏心悦目。

请大家看一看我们脚下地面上铺装的铜钱,大家不妨数一数一共多少枚,这位朋友说十二枚,答对了,它代表着从唐朝到清朝几百年间繁荣鼎盛的时代,有开元通宝、崇宁重宝、大宋通宝、大元国宝、嘉靖通宝、乾隆通宝等。这些铜钱由小至大,既象征着走过这条街可以使您“财源滚滚来”,也象征着我们伟大的祖国不断地走向富强。

漫步古文化街,进出店铺时,您会看到许多店铺门面檐下、枋间有一幅幅极具江南造园艺术风格的苏画。构图生动,形态逼真,使得古文化街绚丽无比。整修后的古文化街在外檐风格上仍然保留着中国传统的建筑特色,其中最为抢眼的要算是这些色彩夺目、画工精细的彩绘了,这些都是请了知名的工匠纯手工绘制的。整条街共有这样的彩绘八百余幅,其中有故事情节的三百余幅。整条街的西侧是以中国古代的四大名著为内容的彩绘,东侧的内容是从汉代到清代的传奇故事。在门面建筑装饰中除彩绘故事画外,另树一帜的是砖、木雕刻装饰。其内容广泛,多数带有浓郁的民俗气息和吉祥喜庆寓意。

我们现在来到了通庆里,它始建于民国2年(1913年),是目前天津市规模最大的中西合璧式的建筑群。通庆里原是一片平房区,据传,该地过去曾是河东粮店街冯家开设的银号,几经易主,成为了居民住房,在整修改造中曾发现有多个已废弃了的地下金库。

我们现在看到的这几处石刻和浮雕也都是反映天津近代民风民俗的内容。

出了通庆里,这里是具有近六百年历史的道教圣殿——玉皇阁。它始建时间,一说为唐代,一说为明洪武元年,但两种说法都无从考证。有史料记载的,距今最远的时代就是于明宣德二年,也就是公元1427年重建的,现在大家看到的就是明宣德二年的建筑。其实原来玉皇阁指的是一片建筑群落。最外边有旗杆,后面有狻猊,也就是俗称的铁吼,里面有牌坊、山门、偏殿、配殿等,但是由于年深日久,加上战乱频频,这些建筑已经不复存在了,保留下来的只有原来的清虚阁一座殿堂。是天津市区唯一保存完好的明代木结构楼阁。殿内一层供奉的是玉皇大帝铜像,二层有四条记载其修缮过程和年代的“千秋带”被完整的保留下来,同时还有保存完好的明代彩绘。这些彩绘现在依然清晰可见,颜色鲜艳,栩栩如生。

现在大家来到天演广场,因为临近中国近代著名翻译家—严复老先生的生前居住地而得名,著名的《天演论》就是在这里翻译而成的。古文化街大狮子胡同是严复故居所在地,在严复故居原址建设天演广场,设立严复铜像和天演论石刻。

前面我们来到杨柳青画馆。杨柳青年画是中国著名的三大民间年画之一,它出产于杨柳青古镇,始于明代崇祯年间,清代达到鼎盛时期。在中国版画史上,杨柳青年画与南方著名的苏州桃花坞年画并称“南桃北柳”。当年,天津市西青区杨柳青镇及其附近村庄,大都从事年画作坊生产,有“家家会点染,户户善丹青”之称。

大家朝我手指的方向看,这就是闻名世界的天津泥人张彩塑,天津市泥人张彩塑创始于清代道光年间,泥人张的创始人张明山6岁随父捏制泥人,练就一手绝技。他在与人交谈过程中,不动声色,触手成像,不仅形神毕肖,而且栩栩如生。传说,张明山经常在袖子里藏着泥去看戏,一边看一边在宽大的袖子里捏头像,一曲未终,便捏出了各个角色,活灵活现,各具特色。他善塑肖像,曾给不少名人塑过像。现在艺术博物馆里面陈列的梅兰芳像就是梅先生演出黛玉葬花的艺术再现,见到这件艺术作品,就犹如见到梅先生的婆娑舞姿。1915年,张明山的作品《编织女工》获得巴拿马赛会一等奖,张玉亭的作品获得巴拿马万国博览会荣誉奖等。对于天津泥人张,郭沫若、徐悲鸿、赵朴初等曾分别题诗、题词、著文予以颂扬。徐悲鸿曾称泥人张彩塑艺术为“惊人绝技”。

泥人张彩塑流传、发展至今已有180年的历史,是一种深得百姓厚爱的民间美术品。它在继承传统的基础上创造自己的风格,其作品取材广泛,塑造人物生动,塑与绘的结合使作品更具生命力。其艺术地位获得国际认可。泥人张经过几代人的传承,成为我国泥塑艺术的又一个高峰。

天津杨柳青年画与泥人张彩塑均为首批国家级非物质文化遗产。

这片空旷的场地便是天后广场,是因天后宫而得名。天后宫是古文化街上最主要的建筑,它是世界三大妈祖庙之一,与福建湄州妈祖庙、台湾北港朝天宫齐名。由于海河通渤海,三岔河口码头是当时的大码头,因此凡有船舶出海,都从此处登船。所以在这里修建了妈祖庙,远行之人在扬帆出海前拜祭妈祖,祈求妈祖的庇佑。它位于全街的中心。在天津很早就有“先有天后宫,后有天津卫”之说。在天津,天后宫又俗称“娘娘宫”。天后宫内供奉的是“天后娘娘”——林默,在古时被人们称为护航女神。传说林默是福建莆田人,经常驾船出海,搭救遇难的人,故被后人敬为女神。元时京城每年需北运大批粮食,先从海路运抵天津,然后再转河运至京城。元政府为祈求航海安全,便将护航女神崇为天妃,并在沿海城镇建起天后宫。天后宫建于公元1326年,农历三月二十三日是娘娘的生日。每年这时都举行“皇会”,表演高跷、龙灯、旱船、狮子舞等,百戏云集,热闹非常。皇会是因清乾隆皇帝下江南时曾游此会而得名。天后宫广场有两棵竖立了600余年大幡杆,据传,在天后宫建成的不久,为了保佑出海的人们永远平安,就在天后宫的门外建起了这个幡杆。在每年的皇会和天后生日的那天,这两棵高大的幡杆上各挂有24个大红灯笼,用以祈盼出海人们平安返航,相传到了夜晚,返航的人们刚刚进入大沽口,就可以远远望见家乡的幡杆了,归航的人们更是归心似箭,总是连夜返航与家人团聚。大家一定很奇怪,中国古代的庙宇、宫殿、衙门等一般都是坐北朝南,而这座天后宫却是坐西朝东。因为要面对海河,海河通渤海,面对海河即是面对海,以供信民不方便下船时在海河上对妈祖遥拜。

在广场的东侧、临近海河方向有一座戏楼,与天后宫广场形成了相对独立的空间。对面的戏楼最初建造的目的,是为了答谢妈祖的护佑而给妈祖演戏用的。它也是天津最早的戏剧演出场所。修缮后,它恢复了舞台的功能和效果,每有年节庆典,都会有演员名家来此演出。

走在古文化街,你可以感到街区走向自然曲直,错落有韵;外檐建筑尺度适中,商店铺面长短有序,呈现出鳞次栉比的古街效果。古文化街充满了浓郁的古老味、文化味、中国味和天津味。这里是风情美食馆,它的旁边是名流茶馆,在这里您可以体验天津的风土人情,观看天津的传统相声,品尝天津的地方特色小吃,享受中国文化的艺术熏陶。

走出了文化馆,我们现在来到的是古文化街的南口,地面上铺装的是十二生肖的图案。它与北口的铜钱铺装图案遥相呼应。再看这座牌楼,外侧的“津门故里”,“津门”指天津“故里”是老地方的意思“津门故里”就是天津的老地方。

时间过的真快,走出这座牌楼,我们今天的天津古文化街游览活动就全部结束了。 各位朋友,短暂的一日即将结束,在这里我要感谢大家对我工作的支持与配合, 希望此行能给您留下美好的印象,欢迎您再来天津,再来古文化街,谢谢!

古文化街案内

皆様、いま踏まれた所は国家5A級景勝地---天津古文化街の北口です。天津古文化街は天津の発祥地と言われ、早くも1404年に「衛」(軍事単位)が創建される前から、次第に発展してきました。天津では最も早い文化、宗教、商業貿易の集散地であり、天津民俗文化と海河文化の合流地でもあります。古文化街の東は海河、西は東馬路に臨んでいます。北側は宫北大街から、南側は水阁大街まで伸びており、全長687メートル、幅5メートルです。古代にここは海の神を祀る所である同時に、船頭の集まる娯楽の地方でもあります。天津の伝統文化を育まれた所ですから、天津十景の一つに決められ、「故里寻踪」という美称を得ています。

前方にある建物は清政府により設立された中国二番目の国営金融機関です。1902年、直隶総督である袁世凱が東北角で 「天津官銀号」を創立したが、1932年にその建築が壊されました。2005年に海河の総合開発の一部として、「天津官銀号」が復元され、ホールの右側に「百年官銀号」という展示室が設立されました。

前方にある清代の牌楼を復元した鳥居をご覧ください。上には「沽上艺苑」の4文字が書かれています。古文化街の店舗は建築や装飾から扁額、対聯、商品までも芸術的な雰囲気が醸し出されています。天津文化の発祥地と意味しています。古文化街を歩けば芸術の鑑賞にもなります。

次は、地面に飾られている銅銭の図案をご覧ください。全部で何枚か数えてみてください。こちらの友達は12だと答えたのは、正解です。そこにある銅銭は、それぞれ唐代から清代までの数百年間の繁栄の最盛期を代表しているものです。それぞれ、開元通宝、崇寧重宝、大宋通宝、大元国宝、嘉靖通宝、乾隆通宝などですが、形の大小順により並ばれ、この街を歩いたら、「財源がもうもうと来る」と象徴しながら、偉大な祖国が絶えず富強になりつつあることも祈っています。

古文化街の商店に出入りする時、店の軒には江南造園の芸術風格を備える蘇画が飾られていることに気づくでしょう。その構図は生き生きとしていて、形態は本物そっくりです。古文化街は修繕された後、軒の風格が依然として伝統的な中国特色を有して、その中に最も注目されているのはこれらの色絵なのです。すべて有名な職人によって手作りされ、8百枚以上もあるが、その中にストーリの筋のあるものが3百枚ぐらいあります。街の西側に飾られているのは中国古代の四大名著を画く色絵で、東側にあるのは漢代から清代までの伝奇ストーリを描くものです。色絵以外、れんがや木の彫刻も注目されており、その内

容は広範で、多数は濃厚な民俗の息を体現しながら、吉祥やお祝いと寓意します。 ここは通慶里でございます。民国の2年(1913年)に建てられ、天津市内に現存する最大規模の中国と西洋の折衷建築群です。通慶里あたりの建物は昔平屋が多く、嘗て河東粮店街の馮家がここで私営の金融機関「銀号」を開設したが、其の後持ち主が何度も変わり、市民の民家になったそうです。民家の改造工事中で地下金庫も発見された噂もまいたらしいです。ここにある数ヶ所の石刻と浮き彫りも、天津近代の民風や民俗を反映しています。

通慶里を出て、600年歴史を持つ天津最大な道教宮殿――玉皇閣は目の前に現れます。唐の時代に築き始めたと言われていますが、明の洪武元年に築き始めたと言う説もあります。目下のところ2説とも考証できません。今の建物は史料によって明の宣徳2年(1427年)に修築されたものです。古代玉皇閣は規模の大きい道教建築群でした。主なものは外から旗竿、狻猊の守り神、中には牌楼、山門、前殿、配殿などが建築されました。しかし、長年の戦乱や荒廃に重ねて、建物は殆んど荒れ果ててしまいました。今残っているのは、清虚閣の楼閣だけです。清虚閣は天津市内に現存する唯一の明代の木造楼閣であり、殿内一階では玉皇大帝銅像が祀られていて、二階には玉皇閣の修繕の経緯や年代を記録した「千秋帯」が4本保存されています。それに色鮮やか、生き生きとした明代の色絵も完全に保存されました。

ここは天演広場でございます。近代の翻訳家である厳復の大獅子胡同にある故居に臨むため、その名が付けられるのです。有名な『天演論(自然進化論)』はこのあたりで翻訳されたため、厳復故居の旧址に天演広場が造られ、厳復の銅像と「適者生存」の天演論の石碑を立てたのです。

前方にあるのは楊柳青年画館でございます。楊柳青年画は三大民間年画の一つとして、明代の崇禎年間から楊柳青古镇で作り始め、清代に最盛期になりました。中国版画史において、楊柳青年画は蘇州桃花坞の年画と並び「南桃北柳」と言われています。当時楊柳青町内をはじめ周辺村村には多くの年画工房ができて、年画職人もおおく、「家々が彩色をよくし、戸々が絵画に長じる」という勢いでした。

広場の北側には、世界でもその名が知られた泥人張の店が見られます。天津泥人張は清代の道光年間に創始され、創始人である張明山は6歳から父に従って泥人形を作り、抜群の腕前をもっていました。話によると、彼は客の前に座り話しながら、顔色一つ変わず、

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