日本人の内外意识と言语表现

更新时间:2023-10-19 11:42:01 阅读量: 综合文库 文档下载

说明:文章内容仅供预览,部分内容可能不全。下载后的文档,内容与下面显示的完全一致。下载之前请确认下面内容是否您想要的,是否完整无缺。

要 旨

日本社会で、内外意識は所々に見られる。その意識は日本人の行動を左右している。この内外意識は日本語人の行動様式を影響するとともに、日本語の表現も影響する。日本語で、発達な敬語、不明確な日本語表現など、日本語の内外意識が生き生きに表現されるのである。

筆者は日本語を勉強して以来、その内外意識を深い興味を持っている。ここで、内外意識と敬語、不明確表現、日本人の思いやり、特別な文の内外意識表現、内外意識の歴史原因などから小論を展開していきたいと思う。 キーワード:内外意識; 日本語の表現; 敬語; 不明確表現

摘 要

日本社会普遍存在内外意识,内外意识很大程度上左右了日本人的行为。这种内外意识不仅体现在日本人的行为模式,还体现在外在语言表达上。在日语中,发达的敬语,不明确的日语表达,无不生动的体现了日本人的内外意识。

笔者自学习日语以来就对内外意识这一现象对日语的影响很感兴趣。在此,想从内外意识与日语敬语表达,与日语的不明确表达,和为对方着想以及个别词的内外意识表现。内外意识的历史原因等方面做一些简单考察。 关键词:内外意识; 语言表达; 敬语;不明确的日语表达

日本人の内外意識と言語表現

1.はじめに

ご周知のように、強い内外意識を持つことが、日本人の顕著な民族性格の一つである。彼らたちは「内」の人に思いやりをしたり、お互いに助けあうのに対し、「外」の人を無視したり、遠慮するのである。また、このような性格が日本人に独特的なものの考え方を形成させ、日本社会にも計り知れない影響を与えたと言えるであろう。

なお、言語は文化の投影であり、文化のインデックスである。人間は特定の文化背景の中で養成されたものの考えを言語によって表現するのである。言いかえしてみれば、人間にはどんな思考様式があっても、それに当てはまる言語表現があるに決まっている。その内外意識も日本語の言語表現と切っても切り離せない関係が存在するのである。本稿では、筆者はまさに日本語の具体的な言語表現を分析し、日本人が言語表現を通じて、どのようにして、自分の内外意識を表現できているのか、をあきらかにしたいのである。

2.本論

本論では、筆者は主に敬語表現と内外意識、不明確表現と内外意識及びほかの言語現象と内外意識、この三つから日本人の内外意識と言語表現のかかわりを論述しようと思う。

2.1敬語表現と内外意識

2.1.1敬語の概念及び使用

敬語というのは相手に対する敬意を込めて使われる言葉のことである。内外区別が日本語の敬語の特性だと思う。

日本で、外の人、見知らぬの人に敬語を使わなければならない。内の人、熟知の人に敬語を使う必要はないが、外の者は心を許せぬ人なので、慎重によそ行きの言葉を使うべきである。

1

人を外の人、内の人をふるい分けるということが、日本語で表現や語彙の選択を左右するのである。つまり、人をどのように待遇するか、これは他人を自分の目にどう捉えるかによっている。遠慮、敬遠の心理から始まり、やがて、心を許す親密なあい間へと進む移行パターンは日本人的である。外国人は、日本人と付き合いいにくい人種と考えたり、日本人は何を考えているのか分かりにくいと感じたりするのもある。

しかし、日本人の内外意識から見れば、この敬語使用の複雑は簡単になるだろう。

2.1.2敬語はどのように「内」と「外」を表現するか

話し手が敬語を使おうとするとき、注意しなければいいけない点が二つある。一つは、相手との上下関係である。つまり、上司と部下の関係や、年上と若者の関係など。地位の低い方は地位の高い方に敬語を使う。もう一つは、相手との親密程度である。つまり、見知らぬ人や外の人に敬語を使う。友達や親友に敬語を使う必要はない。

また、上述の敬語使用規則によって、周りの人間を次の図1のように「内」と「外」、二つのグループに区切られる。

内 外 B上、しかも親しい﹙例えば、自分の父母。A上、しかも親しくない﹙例えば、見知らぬ﹚ 年上。﹚ C下、しかも親しい﹙例えば、自分の弟、妹。D下、しかも親しくない﹙例えば、見知らぬ﹚ 子供。﹚ 図1

中には、AとDが「外」にされる。見知らぬ年上や見知らぬ子供など、見知らない人間だから、よそ行きの言葉を使うべきである。一方で、BとCが内にされる。たとえば、自分の父母や自分の弟、妹などのような親しい人間に、敬語を使う必要はないだろう。

しかし、ある人は「内」に属するか、「外」に属するか、場合や時間の変化にっよて変化する。たとえば、自分の上司に対して、会社の中で敬語を使うだろう。しかし、外の者は割り込む場合、たとえば、「社長はいらっしゃいますか?」という電話が来た時「社長はいらっしゃいません」と答えてはいけない、

2

「社長はおりません」と言わなければならない。その時、内と外の関係は問題のキーポイントになるからである。

2.1.3内外関係の変化によっての敬語使用

他人 ↓ 知人 ↓ 友人 ↓ 内 仲間 甘えを許しあう 敬語を使う会話、遠慮の態度。 外 ↓ 親しみの感情。 本音を吐露し合う、家族的付き合い。 図2

図2のように、人と人が付き合う時、一般的に「他人」「知人」「友人」「仲間」という過程を経る。具体的に言うと、見知らぬ人と初対面の時、お互いは「他人」である。その時、相手に遠慮の態度や、敬語を使う必要がある。しかし、時間の経つにつれて、相手のことがだんだんよく知ってきて、相手と知人になっている。その時、時々敬語を使わなくなる。そして、両人の友誼が進み続き、お互いに本音を吐露し合ったり、家族的付き合ったりするようになる。また最後、仲間になったら、両人は完全に内の人となる。その時、甘えも許しあう。

つまり、見知らぬ、よく知っていない時、敬語を使う。話のやりとりをするとき、礼儀正しく慎重に、それともやさしい態度は必要である。それに対し、うちの人になると、自由に話しあったり、家族のように付き合える。本音を話し、相手に甘え出来る。お互いに甘えるかどうかは内と外の限界を判断する第一の印だと言える。

2.2不明確表現と内外意識

日本で個人間の対立は忌み避けている。日本人から見れば、直接な話し方は自分の手や足を束縛して、それとも必要ない対立を招くかもしれない。だから、「口は禍の門」という諺は生まれる。

3

外の人に明確に言うより、適当に遠慮がちに言うことで、相手が自ら察してくれることを期待する言い方を日本人は好むようだ。それで、日本人の不明確な話し方は世界でも有名である。

本稿ではその不明確表現の一部分と内外意識の関係を論述しようと思う。

2.2.1「ちょっと」の内外意識表現

日本人の辞典で「ちょっと」はとても妙な言い方である。「ちょっと待って」「ちょっと食べてみて」のように使われる。待つことは待っていい、食べることは食べていい、どうして「ちょっと」を使うか。

実は、これは日本人の内外意識と深い関係を持つ。外の人を待たせる時、どのぐらい待たせていいか、全然分からなくても、「ちょっと待って」を使って、相手の心理的な負担を軽くしようとするのである。

日本人は外の人に心理的な負担をかけたり、内を強くアピールすることを嫌う、そこで、「ちょっと」を使って、大したではないと思わせる。相手に自分の意向が分かるような場合や言い難い場合など「ちょっと」の後、わざと何も言わない。

2.2.2「ほど」、「でも」などを使う思いやり

日本人は人に頼む時、さまざまな不明確表現を使用する。

例えば、「1000円ほど貸してもらえないかな」、このような金額をはっきり限定せず、相手の都合によってはそれより少なくてもかまわないように、できるだけ相手の都合に合わせようとする態度を示す。

また、「コーヒーでも飲みませんか」、「コーヒーか何か飲みますか」というように「でも」、「か何か」などがよく使われる。

私たちは相手﹙外の人﹚の好みによって、コーヒーでも、ビールでも、何でもいいということで、相手の都合に合わせるようという気持ちを伝えるものである。

以上は外人に思いやりな言い方であろう。日本人の内外区別の意識でその不明確な話方は外人の都合によってこれからの行為を左右するのである。

2.3ほかの言語現象と内外意識

4

2.3.1授受表現:もらう やる くれる

私→君 私→彼 君→私 君→彼 彼→私 彼→君 彼→彼女 もらう × × ○ ○ ○ ○ ○ やる ○ ○ × ○ × ○ ○ くれる × × ○ ○ ○ ○ ○ 図3

(「○」は正確な表現。「×」は間違った表現。「→」の左は動作の施行者、「→」の右は動作の利益を受けた方。)

やる

君、彼 ﹦自行他利

私 -→

例:弟に本を貨してやる。

この例の動作の施行者は「私」である。動作の利益を受けた方は「弟」である。「内」から「外」に本を貸す。

くれる

私 ﹦他行自利

君、彼 -→

例:友達がたくさん来てくれる。

この例の動作の施行者は「友達」である。動作の利益を受けた方は「私」である。「外」の人の「来る」は「私」にとっては幸せのことであろう。

もらう

私 ﹦ 他行自利

君、彼 -→

例:友達に記念写真を撮ってもらう。

この例文中の動作の施行者は「友達」である。動作の利益を受けた方「私」である。「友達」は外の人として「私」のために記念写真を撮る。

以上の「利」は「利益」の意味である。でも、この利はいい影響を示すだけでなく、時々は悪い影響にもなる。

例えば、例:「勝手に人の部屋に入ってもらっちゃって、迷惑だ」

5

「私」は部屋で何かをしていて、「外の人」の誰かが入って、「私」のしていることを断ち切るなど、迷惑をかける。

もう一つの例文を挙げれば、「偉い事をしてくれたよ、これからの後始末は大変だ」。「外の人」は「偉い事」をしてしまって、これからの後始末は多分「私」をしなければならない。つまり、これは相手(外の者)の不良行為のため、自分(内)を迷惑される。

2.3.2「から」と「に」の内外意識の区別表現

例:私は恋人から/にダイヤの指輪をもらいました。

「に」を使う時、相手を内の人にされる、「から」を使う時、相手を外の人にされると考えられる。例えば、「佐藤さんから部屋を借りてもらう。」 その文は「から」を使う。「私」と「佐藤さん」はただ知人の関係かもしれない。佐藤さんから部屋を借りてもらって、大変助けになるのである。外の人から利益をもらう、それにその感謝の気持ちを含む。 例:「趙さんに記念写真を撮ってもらう。」

その文の中で「に」は使う。その場合、趙さんはとても親密な親友として友達に助ける。「私」は「趙さん」を内の人として、感謝の気持ちもあれば、平気で助けをもらう気持ちもあるだろう。

2.3.3「ば」「と」「たら」「なら」と内外意識

仮定表現は日本語で非常に発達している。その理由の一つに日本人が発達している「ウチ意識」が作用しているのではないかと思う。同様な二つの物に対し、二つの視点から観察できる。一つは、客観的、すなわち「外の目」で観察する、もう一つは客観的に、対象の内部に目を置いて、「内の目」で物の内外関係を観察する。

この二つの視点から、「ば」「と」「たら」「なら」の仮定表現を分析してみましょう。

外―外 話し方と関係ないこと。(規律、真理など。﹚ ば 外―内 例:寒ければ、もっと着なさい。 例:春になれば花が咲く。 命令や希望、決心など。 6

一般的な客観事実。 外―外 と 内―外 例:そんな事を言うと後でひどい目に会うぞ。 話し手自分からの意志や判断など。 たら 内―内 例:午後、雤が降ったら、洗濯物を取り込んでください。 話し手の判断など。 なら 内―外 例:雤が降るなら、傘を持って出かけよう。 例:9から6を引くと3になる。 話し手が外のものに対する認識など。 図4

① 「ば」について

「ば」の仮定表現文には、「外と外」の関係と「外と内」の関係、二種類の文が存在する。例えば、 「春になれば花が咲く。」

それは「外と外」の関係。自分の意識を左右できないこと。春になるや花が咲くなど、私たちの意識で左右できないだろう。

もう一つの例文を挙げれば、「お金があれば、海に行きたい」。

それは、「外と内」の関係。もしお金があれば、「私」は「海」に行きたい、「山」でない「外国」でない、ただ「海」に行きたい、それは自分の希望を外人に理解してほしいと思う。。 ②「と」について

「と」の仮定表現文は、「外と外」の関係と「内と外」の関係を示される。例えば、「9から6を引くと3になる。」、それはただの客観事実である。9から6を引く、それはただの数学計算。その数学計算の結果はかならず「3」になる。ほかの結果を出ると間違いになる。

また、「内と外」の関係の場合、話し手の認識な表す。例えば、「そんな事を言うと後でひどい目に合うぞ」。この文では、「そんな事を言う」のは「私」でない、ほかの人である。「ひどい目に合う」のもただ「私」の推断である。実は、「私」を話していることは「私」と関係ないことである。 ③「たら」について

7

「たら」の仮定表現文は、「内と内」の関係を示し、話し手自分の意志や判断などを表す。例えば、「午後、雤が降ったら、洗濯物を取り込んでください」。 この例は意外の変化とか、自分の感情を強烈に現われる。「私」は自分の意識で「雤が降る」という現象を仮定しておく、ほかの人に「洗濯物を取り込む」という要求を出すのも「私」の意識にっよての行動である。 ④「なら」について

「なら」の仮定表現文は、「内と外」の関係を示し、話し手の判断などを表す。例えば、「雤が降るなら、傘を持って出かけよう」。中には、「雤が降る」がまだ事実ではなく、ただ「私」の判断だ、「傘を持って出かけよう」は、「内」の認識からの対外の行動であると見なされる。

2.4内外意識の起源

以上述べたように独特な日本語は確かに日本人の独特の心を十分に反映している。内外意識の生成は日本的な原因が存在する。基本的なところは、日本風土や歴史や社会的なものと基本的に関係を持つことにあると思う。

2.4.1古代日本人の生活場所に関する認識

日本の国土は海中の島である。四面の海異民族の侵入を防ぐ一方、島以外の世界を隔ててしまった。だから、視野が狭く閉鎖的で、日本人の心はそれによって相当な影響を与えられたのである。

古代日本人は生活場所を二つに分けた。一つは「内」、もう一つは「外」である。内は「私」を中心に夫婦や子供と一緒に生活する場所である。もし、その中心をもう少し広めて「ムラ全体」を示す、もう少し広めては全国まで含まれている。

また、西紀前四世紀ごろから、農耕の伝来によって、そんな風土や歴史的条件の中で要請された日本人は内の人に「何もかもがはっきり言わない」ように思うようになったと思われる。相手に対して、激しい自己主張をするよりも自己の判断することから奥深く退いて意志を伝達することが日本人に歓迎される。

2.4.2「イエ」制度

8

日本の家は成員の生死を超え、家財を経営し、一緒に生活する団体である。 日本人は「イエ」の中で「和」の精神を重んじ、外の人との摩擦を避けようとする傾向が強いのである。

日本企業は明治時代からいままで大小を問わず家族的な経営は継続してきた。どの会社も、自分の規則がある。成員はその規則を守らなければならない。そして、成員全員は一家になる。内に人はもちろん規則をよく知っている、しかし誰か外の人をその「イエ」に受け入れたい時、その団体の規則をよく調べるは必要である。

3.おわりに

日本人の礼儀正しさは世界でも有名である。しかし、この礼儀正しさの陰は不信任である。もし、ある外国人が日本文化の妙を大分分かって、日本人らしいの付き合いもよくできる。その時、日本人はきっと不安になってしまう。日本人になりたいという意識は早く止める方がいいと思う。

以上は、日本人の内外意識と日本語の言語現象について、概観してきた。内外意識と日本人の複雑な心は深い関係をもつことが分かった。私はここではただ未熟な見解を述べたが、さらに日本人の内外意識の研究をつづけなければならないと思う。

参考文献

1.井出祥子 2.牧野成一

「日本人のウチ·ソト認識と弁えの言語使用」 『言語』月刊 1992 『ウチとソトの言語文化』 アウク

創拓社

1996 1996

3.水谷修 『話し言葉と日本人』

4.金田一春彦 『日本語百科大事典』 大修館書店 1993 5.大野晋

『日本语の文法を考える』 岩波新書 1978

9

6.森田良行 『日本語の視点』 創拓社 1998

1997

7.大森和夫·大森弘子·曲唯 8. 吕万和等译

『日本』上.下 大連出版社

鲁斯·本尼迪克特 《菊与刀》 商务印书馆 1990

9.祝大鸣 《日语语言文化初探》 《解放军外国语学院报》 1995.2

10.肖传国 《日本人的内外意识和日语表达》 《日语学习与研究》 对外经济与贸易大学

出版社 2001.3

11.赵淑玲 《日本人的内外意识和集团意识》 《日语学习与研究》 对外经济与贸易大

学出版社 2004.4

12.吴芳

《从日语特性看日本内外文化》 《玉林师范学院学报》 玉林师范学院出版社 2006

13.王秀文 李庆祥

《日语泛读》

外语教学与研究出版

2001.7

14.遠藤藍子 「キーワードで探す日本人の心」 『日本語新幹線30』外语教育与研究出

版社 2003.5

15. 谷啓楠 『文化教学と外語教学』

外語界

1988

10

6.森田良行 『日本語の視点』 創拓社 1998

1997

7.大森和夫·大森弘子·曲唯 8. 吕万和等译

『日本』上.下 大連出版社

鲁斯·本尼迪克特 《菊与刀》 商务印书馆 1990

9.祝大鸣 《日语语言文化初探》 《解放军外国语学院报》 1995.2

10.肖传国 《日本人的内外意识和日语表达》 《日语学习与研究》 对外经济与贸易大学

出版社 2001.3

11.赵淑玲 《日本人的内外意识和集团意识》 《日语学习与研究》 对外经济与贸易大

学出版社 2004.4

12.吴芳

《从日语特性看日本内外文化》 《玉林师范学院学报》 玉林师范学院出版社 2006

13.王秀文 李庆祥

《日语泛读》

外语教学与研究出版

2001.7

14.遠藤藍子 「キーワードで探す日本人の心」 『日本語新幹線30』外语教育与研究出

版社 2003.5

15. 谷啓楠 『文化教学と外語教学』

外語界

1988

10

本文来源:https://www.bwwdw.com/article/7pof.html

Top